携帯
携帯でつねに繋がっていないというのは、ふわふわとして変なものだ。自分がなにも変わっていないにもかかわらず変わったような心地がする。それは気づかないほど緩やかだが、忘却のようにある時点からは決定的で不可逆的な変化で、例えば僕らが明日から二次元に生きるとして、今日まで生きていた三次元の思い出を明日からは奥行きを失ったものとして思い出すのだろう。そんなことを考える。
色々な消去あるいは上書き保存の中で僕らは生きているのであって、この感慨も変化の波に洗われて消えていく砂上の文字に対するセンチメンタルなのかもしれない。だがおそらく少し違ってもいるのだ。
住まいを変えてから、自分が生まれなおしているのだという感覚を覚える。携帯がなくなる感覚は単なる移行というより、消去されていた昔の地層が思わぬ侵食によってなにか懐かしく新しいものとして地表に表れるという種類のものであって、それは変化だが、螺旋を描いている。
侵食はより深いところでも起こっていて、例えば今までとは違う食べ物を食べて暮らすというのは自分が文字通り内側から造り直されているような心地がするものだ。船はすべての部分を造り直されてもまだ同じ船のままなのだろうか。オートマティックに適応していく身体が、逞しくも思えまた恐ろしくもある。
蛹はその中で一旦身をすべて溶かすというが、外殻が褐色に硬く固まった下で破壊は行われているのかもしれない。それを僕は意識の閾下で望んでここに来たのだといまわかる。思えば他人任せな態度ではある。
僕ももういい歳だがここから生まれなおすのは幸せなことだろうか。変態のち翔ぶエネルギーを蓄えられているだろうか。崖から飛ぶことができるのは今が最後だろう。だがこの初速でどこまでいけるのだろう。翅の存在を当たり前に確信して踏み切ることはもうできなくなった。
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