『オーセンティシティについて』について

ファッション批評誌Vestojの第8号特集は『オーセンティシティについて(On Authenticity)』であった。「オーセンティシティ」は「オーセンティック」であることであり、「オーセンティック」というのは「起源のはっきりとした」「真正な」という意味を表す(OED)。ファッションをこの言葉で分析しようというのは面白い試みに思える。実際に、現代ファッションにおいて「オーセンティック」であることは重要なことのようだからだ。マルジェラはレプリカにその起源を示すラベルを貼り付け、アーティザナルは複製品を用いた一点もの、つまり二重の意味でオーセンティック(誰もが起源を知っており、そして複製品でないという意味で真正)である。また、シュプリームと組んだルイヴィトンは、伝統あるメゾンでありながら、「リアルである」ことを示したがっているように見えたし、一方組んだシュプリームの方は、そのルーツからの乖離に対して誹りをうけた。また、シュプリームのコレクションにおいてサンプリングが多用されることは周知の事実だろう。

マルジェラ、シュプリーム、ルイヴィトン。この、全く異りつつ、同時にそれぞれが現代ファッションのエステティックを規定する源流であるかのような組み合わせを見ても、オーセンティシティについて考えてみることが現代ファッションを理解する上で重要な補助線たりうることが分かるだろう。Vestoj第8号『オーセンティシティについて』はそういった意味で非常に興味深い。あいにく本誌が手許になく、筆者はホームページ上で閲覧できる情報のみしか見られなかったのだが、その巻頭論文「オーセンティシティについて」を読むだけでもオーセンティシティの持つ現代的な意義を考える一助となるはずだ。
本稿は、興味深いものの、必ずしも理解しやすいとは言えないこのテクストを、ある程度飲み込みやすいものにするという意図のもとに書かれた。ただ意味を補う過程で、筆者の臆見が多分に含まれているという可能性は大いにある。興味を持たれたら、是非ネット上で閲覧できる原テキストを読んでみてもらいたい。

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なぜいま、オーセンティシティなのか。
現代において、もはやメディアは信じられなくなっている。真実に対しても、ある程度相対的な見方がされるようになったように見える。しかし、我々は「真正」であることを求めるのをやめられない。「本当の自分」を探し、地に足のついた「丁寧な暮らし」に憧れる。
つまり、オーセンティックであることは、一つの価値である。ここで、価値の階梯の一方に「真正」があるとするなら、もう一方にあるのは「上辺」ということになるのではないか。我々は、上辺の下に真正なものがあることを信じている。本当の自分、丁寧な暮らしは、上辺の自分の下にあるもの、浮ついた暮らしの垢を落とした先にあるものを意味しているように思える。
しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。我々が見ている硬くひび割れた表面の下には、本当に真実のマグマが流れているのか?玉葱を剥いていくように、どこまで掘っていったとしても、そこにあるのがまた別の表面でしかないとしたらどうだろう?もしそうだとしたなら、むしろ「真正」であると思っていたその深みこそが、表面によって、表面を否定することで、作られたと言えるのではないだろうか。「本当の自分」とは何よりもまずいま、ここの自分とは違ったものであり、「ていねいな暮らし」は「〇〇しない」ことによって定義されるように思われる…。

ファッションは、オーセンティシティという価値から最も遠いが故にそれを求める、とVestoj(以下、V)は主張する。確かにファッションは、ある原理から演繹的あるいは垂直的に統御されてできた(つまり、全てが流れ出るひとつの中心を持つという意味でオーセンティックな)体系というよりむしろ、表面から表面へと水平的に連結する一つの流れのように見える。
しかし同時に価値に関係付けられるファッションは、そこに必然的な一つの原理が働いていると信じたい。そういった際に典型的に用いられるのが、「ストーリー」であり「ヒストリー」(二つの言葉の語源は同じものだ)である。Vは述べる。
「オーセンティシティのオーラは、想像された過去をこうして再現することでその周りにまとわれるのだが、しかしそうやって得られるものはオーセンティシティそれ自体ではなく、ただの人工的で間接的なスペクタクル(見世物)なのである。」
つまりファッションは、自らの典拠を自らで示しつつ、それが「典拠がはっきりしており」、「真正な」ものであるということを言っているのだが、その典拠はというと実は人工的なものでしかないのである(そもそもいったい、自身の無罪を誰が証明できるだろうか?)。

さて、服がある意味で、個人のアイデンティティを規定するメディアであることは特別に論を俟たないだろう。「本当の自分」を探す我々は、自分が真正であることを示したい。Vによれば、「我々は買う、私たちが本当は何なのかを定義する助けとするために」。しかし先に言ったように、ファッションによって得られるオーセンティシティは、その根拠が実は曖昧であり、だからこそ我々は「次の新しいドレスやジャケットが、ついには世界に対して自分のかけがえのなさやオーセンティシティを明かし立ててくれると願って」服を買い続ける。
服は、それにまつわるストーリーやヒストリーを、自分に代わって語ってくれるようだ。そうすることで、我々は自らのアイデンティティを作り上げていくことができるように思う。ここで面白いのは、表面から虚構的に構成された深層としてのオーセンティシティが、実態を持たないのにも関わらず、アイデンティティの構築に作用するということである。
この「作り出された表面から仮想的な深層へ/構築された深層から新たな表面へ」というジグザグ運動は、「インスタ映え」という現象により鮮やかに例証される。我々自身も、インスタグラムにアップされるイメージがリアルなものではないことを知っている。そうでありながら、我々は個々のイメージを結び合せ、その背後にあると想定される一つの虚構的な人格を作ることをやめない。そして、こうして作り出された一貫性を持った人格が、我々にとっては、むしろ自分の複雑で、一貫性を欠いたそれよりも、よほど真正なものに思えるのである。

しかしここで、再度、現実の下に真実があるという前提を疑ってみればどうなるだろう。私たちは様々なペルソナ(persona「仮面」)を被って生活している。そのことに間違いはなかろうが、この仮面を被るというメタファーは無辜ではない。なぜなら、その下に無垢な自分自身があるということが(無意識に)前提されているからだ。ゴフマンを援用しつつVは、舞台裏、つまり公的な舞台から一歩下がって、私的な自分を出せる場でさえも、我々は「不可避的に、[……]演技をやめることはない」のだという。つまり、仮面のそれぞれについて、どれがリアルでどれがリアルでないということはなく、それらは一様に、「全てリアルなものであり、また全てが演じられている」のだ。こうしてVの論は、次のような結論(提言?)にたどり着く。
「オーセンティシティが一貫性を表し、マスクは内部の自己を隠すといった考えをやめ、そしてその代わりに全ての外見はその次に来るものと同じく有効だと考えて見てはどうだろう?マスクの後ろには何もない。マスクこそ、そこにある全てであるのだから」。

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以上、「オーセンティシティについて」の内容について見てきた。最後に、少し感想を述べておく。前半のオーセンティシティとファッションの関係についての分析は鮮やかなものだと思う。特に、ファッションがストーリーや歴史によって自らのオーセンティシティを作り上げるというくだりは、ライフスタイル提案が喧しく叫ばれ、また「伝統ある」ブランドのリブランディングが盛んに行われている時代の肌感覚と一致する。また、インスタグラムを例にとり、虚構的なオーセンティシティという構造がSNS上のインフルエンサーという現象をうまく説明するという部分に関しても納得感がある。
ただ、結論部分に関してはファッションから少しずれていき、牽強付会というか、竜頭蛇尾というか、少しそんな印象を受けた。最終の提言も要は表面の称揚であって、特に新しい印象を受けない。全てのマスクが本物であるような世界で、どういったファッションのあり方が可能なのか、といった論が展開されれば個人的にはもう少し面白かったのだけど[1]。まあ、巻頭論文というものの特性上、アジテートすることがまず目的で、具体的な話は本誌でやりますよというスタンスなのかもしれない。
ともかく、オーセンティシティというのは冴えた切り口だと僕は感じたし、そのアイデアを理論的に補強しつつ様々な思考を触発する素敵なテキストだと思う。是非一読を勧めたい。


1. 例えば現代のデザイナーを例にとれば、ヴェトモンはアイデンティティを規定するものとしての服というものにかなり意識的であるように思うし、ヴァージル・アブローのクウォーテーションマークは、自らの典拠を指し示すファッションのアレゴリーかパロディにも見えてくる。

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