誰のことも傷つけず生きることはできるのか。
最近のニュースに思う。
私は、今まで誰のことも傷つけずに生きてきただろうか。
そんなわけはない。
過去の自分全てに胸を張れるわけがなくて。
ではこれからは誰のことも傷つけずに生きていこう!
なんて誓ってもきっとそれはできなくて。
そして、どんなに未来を誓っても、今までにつけてしまった傷は消えない。傷ついた気持ちは過去にならない。気持ちに時効はない。
そんなことを考えさせられて、胸が抉られるここ数日。
3歳の姪が、ある日1歳の娘に向かってこう言った。
娘はまだ何を言われたかわからないので、
イクラちゃんのように「ちゃ〜ん!」と真似をして手をフリフリさせていた。
もちろん姪の母親が、周りの大人が、そういった言葉を姪に投げかけたことはないし、すぐに怒られていたし、謝ってくれた。
姪は娘のことが大好きで、いつも気にかけてくれる。きっと姪なりに抱えているストレスがあるのかもしれない。
でも、もし娘が言葉の意味をわかって、
癒えない傷を負ったとしたら。
姪はこの一言を一生悔いなければいけないのかな。
言葉が重いのはわかるけど、一生償うくらい重いのか。
私は超のつく運動音痴で、小学校の体育が地獄の時間だった。
今の時代は分からないけど、私が小学生だった頃って
とにかく「連帯責任」の社会だった。
体育で対戦するときに、鈍臭い私がいるのは、ハンディだった。
同じ班になるとかけられた言葉に、今でも泣きそうになる。
忘れられないってことは、やっぱり言葉って重いのか。
言った側ってなかなか覚えてないじゃない。
どうして相手が傷つくのかわからないから言えた一言なんだから。
そんな彼らはリコーダーや漢字テストが苦手で、
「班員全員がクリアしないとみんな居残りになる連帯責任」によって、苦しむ姿が見えた。
それについて何も言わなくても、速く走れない私がリコーダーをスイスイ吹く姿は、嫌味な態度だったのかもしれない。
結果的に、「リコーダーってダセぇ」と言われた。
私は大人になった今も彼らが苦手で、今は大人になってそんなこと言わない人たちになってると思うのに、街で見かけたら逃げ出してしまう。(逃げ足は遅い)
でも間違いなく、
私が苦手な彼らのことを、大好きな人もいる。
彼らが嫌いな私のことを、大好きな人もいる。
だから、生きてこられた。
私は結婚して子供を産んでから、知人と繋がるSNSに投稿をすることができない。
する必要もないのだけど。
いろんなことが呪いになりうる、とつくづく思う。
私の結婚は誰かの地雷かもしれない。
子どもが欲しくて悩む人も沢山いるから、私が子供を抱く姿は呪いになるかもしれない。
考えすぎだ。生きづらくしているのが自分なのはわかるけど、怖い。
でもきっと今って、SNSが難しい人たち、いるんじゃないかと思う。だから、めっきり投稿が減ったように思う。
24時間で消えるストーリーズや、親しい友達限定でアップするようになった。
結婚式が挙げられなかった人にとって、結婚式のストーリーは見たくないだろうし
家族に会うのを我慢している人にとって、家族と過ごしている様子を見るのはつらいだろう。
楽しんでいる姿すら、許されなくなっているかもしれない。
無神経とか、不謹慎とか、思われるのかな。
やっぱり、誰のことも傷つけずに生きていくことは不可能だ。
でも不可能だからって諦めて良いのか。
じゃあいいや、って開き直っていいのか。
未来ある命をこの世に生み出したことの重さを思う。