どこに暮らしても、そこは聖地だと思えばいい
「人それぞれ好みも置かれた環境も全く違うのだから、人と比べることに意味はない」とわかり切っているはずのアラフィフになった今でも、人の話を聞いて心がざわつくことがある。万年ポッチャリ体型で冴えない容姿に、パッとしない仕事の出来を日々憂いていた20代と比べたら、その回数は激減しているけれど、それでも歳なりの心のさざ波というのは、不可抗力で起きるものだ。情けないことに。
振り返れば、私にとって近年「心がざわつく」瞬間が訪れるのは、ママ友から旅の話を聞く時が多かった。南仏に行くとか、沖縄の離島に行くとか。一方、家事や子育てに忙しくて旅に出られない時の私は話を聞きながら、内心羨むような気持ちを人知れず燻らせていたのだった。
だが、不思議なことに昨年は違った。相変わらずママ友から旅の計画話はたくさん聞いたけれど、自分でもびっくりするぐらい楽しく、旅行話を聞くことができた。彼女たちの旅先の風景にイマジネーションを掻き立てられながら、頭の中で自分も妄想旅行を楽しんだりして。モヤっとしていた昔と今と比べて、旅行に使える時間やお金が増えたわけでもない。ただ以前より増して、「心」の方は満たされている実感はある。
Instagramに自然写真を投稿し続けることで得た気付き
今の私にとって、Instagramへの毎日の投稿を通じて、自然や花を観察し、感じ入る経験は、日に日に尊さを増している。かつて私は「感動するような自然の風景は旅に出なければ味わえないもの」だと思い込んでいた。しかし、どうだろう。家を一歩出たら、心を傾けて周りの自然を観察してみる。近所で偶然出会ったミモザの木、通り沿いに塀を乗り越えて咲き乱れる椿、冬景色の公園でいち早く咲いた梅の花、ダイナミックに太陽が輝く黄金色の美しい夕焼け。たとえ都会の喧騒で暮らしていようとも、そこにはもう心震える美しい自然の風景が広がっていた。
人混みあふれる新宿駅西口のバスターミルでさえそうだ。人の流れに押されながら、見上げた真っ青な空の美しさは今でも忘れられない。
旅に出ることは、素敵なことだ。私だって時間や状況が許せば、今すぐにもまだ見ぬ風景を探しに旅に出たい。旅立つ友人たちを羨ましく思ったぐらい、本当は旅が好きなのだ。にも関わらず、私に舞い降りた今の心の穏やかさは、毎日の観察を通じて自然と過ごす時間が、私にそっと授けてくれたものだと思っている。繊細に感じ入る心をもって目を向ければ、身の回りには旅先で出会うのと等しく美しい自然が広がっている。
身近にあった、世界の人が熱望する”聖地”
その思いをはっきりと強く感じたのは、昨夏に葉山・森戸海岸沿いの神社を訪れた時のことだった。この日家族で三浦に出かけたついでに、予定外でフラリと立ち寄った海岸の景色は、一瞬足が竦むほど神々しく、美しい風景だった。熱い夏の太陽に照らされて、黄金色にキラキラと輝く海。満ち潮で海の中に佇む神社の鳥居に、雲間から差し込む一筋の光。その瞬間を見たときには、まるで天から使者が舞い降りてくる光景を目の当たりにしたような気持ちになった。これ以上の風景は他にないのではないかと思えるほどの美しさだった。
"Could you take a picture of me?(写真を撮ってもらえますか?)
そう声をかけてきたのは、スペインからやってきた男性だった。海外のガイドブックでは、きっとこの海岸の美しい風景が評判になっているのだろう。男性の他にもヨーロッパからの旅行客が何人か来ていた。車やバスでしか辿り着けず、決して地の利の良いとは言えない、この小さな海岸に。私の身近には、何千キロも遠い旅をして、世界の人々が見たいと熱望する聖地が広がっていたのだ。
どこで暮らそうとも、身近に聖地はある。遠い彼の地を目指さなくとも、いや、家から一歩出た風景にさえ、聖地と等しく美しく、私たちの心を満たしてくれる景色を見つけることができるのだ。まるで、探し続けた「青い鳥」に、近所の駅までの道すがら出会うように。
どこにいたって聖地。そう思えることは、どんなに暮らしを豊かにするだろう。出かけた距離の遠さでも、かけたお金でも、時間でもない。今、暮らしている場所こそが自分の人生に感動を与え続けるパワースポット、すなわち聖地になるのだから。
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