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連休前日の金曜日、仕事帰りの道路はとても渋滞して家に着くまでにかなりの時間を要した。
高速が混んでいるのは分かっていたので迂回して一般道で帰ったのだが、考えてみるとこのルートを最後に通ったのが10年ほど前であった。

10年前と比べ、明らかに古くなった街並み。
数々の個人商店は軒並みシャッターが閉じられ、介護関連の施設が増えている。新しく建てられた住居もほとんど見当たらない。
その中に建物はとても古いのに軒先の植栽が非常に美しく、工夫して丁寧に暮らしていることが一目で分かる家があり、中古物件を手頃な価格で手に入れた若い夫婦かもしれない、などとぼんやり思う。

建物の老朽化は住人の老化と比例していることも多いため、そのような印象を受けたのであろう。
人間が老化に抗い下手に整形などをすると見てはいけないものを見てしまった心持ちになることもあるが、建物のリノベーションというのはせいぜい気持ちよく感じられるのが不思議である。

そのままのろのろと渋滞は続く。かつて大企業の研究所があった広大な場所がいつの間にか開けた野原になっていて、車中から見てもわかるくらいそこかしこにタンポポの綿毛が吹き荒れている。
そしてあんなにもたくさんのトンボが・・・「果たして自分は今世にいるのか?」とふと不安になって、思わず頬の内側を噛みしめていたことに気付く。

さらに進むと左手に暗い原生林のような光景。
「あの珍しい木はなんだろう?」とよくよく見ると、それは全身をツタに覆われてしまったなにかの木で、普段自然というものを概念として『美しい』と思っているものの、現実は残酷で気味の悪いものでもあるのだと鳥肌が立った。

環境を破壊し続けている人類の一員が、こうしたちっぽけなことに怯えるのも滑稽なものだ。

怯えるといえば、私は車に乗っているときに一方通行の標識を見ると一抹の不安を覚える。
いい歳をしてなお、「間違えたら後々大変であるぞよ」と、気味の悪い妖怪がニヤニヤこちらを見ているような心細さに襲われてしまうのだ。

考えればおかしいものよ、とフッと口元が緩む。

そもそも時間というものは、誰に対しても平等に不可逆ではないか。そこに「さあ後戻りはできない」と、ニヤニヤ笑ってこちらを見ている妖怪なぞいない。

それとも常にいるのだろうか?

「人生の分岐点」という言葉を時々耳にするように、そこまで大きくなくとも人は常に選択をしている。その全ての選択の結果が人生という軌跡だ。振り返ればそれは一本の道になっているが、前を向けばまた分岐の数々。そして分岐の中には、決して進んではならないものもある。

しかし「いつ間違えるか」と楽しみにこちらを覗う気味の悪い存在。自分のぼんやりとした恐怖心は、それを妖怪として説明するのが手っ取り早そうである。

少し走るとまた古い街並みが現れるが、これまでと違って商店よりも工業施設が目立つ。ぽつぽつと存在していた個人商店は、時代の荒波に揉まれ姿を消してしまったのだろう。そこにまだ存在していることが奇跡と思えるほど朽ちたトタンの建物には、「荒物店」の看板が。荒物とは大きめの日用雑貨のことであると耳にしたことはあるものの、実際それが正しいのかも知らず、ましてや営業している店舗を見たこともない。

さて、このあたりは車関連の企業が多いのだな。あそこの大きな駐車設備はタクシー会社にしてはタクシーが少ないが、数少ないタクシー車をリースしているのか?なにやら営業の車も多そうだ。
だいぶ年季の入った大きなトラックが一台、その巨体に見合わない細い脇道を器用にバックで進んで行く。ほう、あの先にまた別の会社の車庫があるのか。

ふと辺りを見回す。そろそろ退勤の人も増える時間であろうに、なぜか車ばかりで歩いている人がいない。一帯の企業の特性であろうか。そもそも今は夏休みではないか。この辺りにも住宅はあるのに、子供の姿も見当たらない。
なんとも不思議に感じたが、連日ニュースで不要な外出を避けるよう呼びかけていることを思い出す。猛暑における一時的なゴーストタウン現象か。

人の気配がないというのは、自分の中にある『危険センサー』を発動させるように思う。
これは、集団行動でお互いに身を守ってきた人類の本能なのだろうか。

海外旅行で地平線が見えるような道を車で走っているときに「もしここでガソリンでも尽きようものなら、自分の命も尽きてしまうのだな」と身震いしたが、日本では香川県で同じ思いをした。狭い狭いと思っている日本も、「人間など一捻り」といった険しく広大な地はたくさんあるのだな・・・。

もはや血管のように張り巡らされた当たり前のように存在する道は、先人達によって切り開き作られたものだと改めて実感する。それは自然の命と引き換えに、土地に文明という新しい命を芽生えさせた。
そこに人や建造物があるから、安心して進めるのだ。それは本能もあるだろうし「困っている人がいたら助ける」という自らの気持ちが前提での安心感かもしれない。
そしてそれらの命もいつかは尽き、また自然の一部へと歪に変化していく。

相も変わらず徒歩と競えるような速度で進みつつ、ようやくいつもの街並みへと辿り着く。汗だくになりながら歩く買い物帰りの女性、危なっかしく自転車を漕ぐ子供たち。この渋滞でバスが遅れているのであろう。暑さに耐えながらバス停に並ぶ人たちは、一様に険しい表情である。

見慣れた日常の風景に、小さなタイムトリップから抜け出したような気持ちになり少しホッとする。
そこにいるのかわからない妖怪も、こんな私を見るのは大層つまらないことであろう。

まだまだ車の混雑は続き、ガラス越しの西日に目を細めながら、しかし私に焦りや苛立ちはない。なぜならこの道は「我が家」という、安寧の地に繋がっているからだ。

帰ることができるのだ。
道があるのだから。

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