”マシ”とかいうクソ概念
突然ですがみなさん、「自分はまだ”マシ”」と何かに耐えた経験はありませんか。
私はあります。1つ体験談を話しますね。
小学生の私は、バスケットボールが好きな少女でした。
朝起きてバスケにおける体力づくりのために走って、放課後は監督コーチの指導のもと、仲間と共に切磋琢磨する。
休み時間もバスケをし、土日も練習試合や大会に明け暮れました。
そして、気づけば学校で一番過ごす友人も同じバスケクラブのメンバーになっていました。
時には真剣にスポーツに向き合い、時には小学生らしく遊ぶ
どうです?
あなたが思い浮かべた私は笑っていましたか?充実していましたか?
うらやましい?
とんでもありません。
もちろんバスケは好きでしたが、楽しいだけの日々ではありませんでした。
(記憶って美化されないんですね、いつまでも心にとげは刺さったまま)
どろどろのぐちゃぐちゃでした
粘土質の地に雨が降って、踏み荒らされた後みたいに
映画とかで不気味な未確認生物にまとわりつく謎のネバネバみたいに
汚く、不透明な世界でした。
悪口は当たり前。悪口に共感しないと白い目で見られる。
「何いい子ぶってるの」「偽善者」そんなことを言われる世界です。
”ぶっている”とか”偽”とか、なんで勝手に判断されなきゃいけないんだよ!(コンチクショウ)と今なら思えますが、あの当時は、”みんなと仲良くしたい” ”他人を助けたい”と思うのは偽善なんだ。多少毒がないと面白くない人間なんだ。そう思っていました。
もちろん大人になっても愚痴をこぼすことはあるでしょう。(愚痴と悪口の違いについてnote書こうかな)
大人の愚痴は、吐き出さないと自分が苦しいから、言っちゃうことが多いけど、子供の悪口は違う。
単に相手を傷つけることを目的としている(臭いとかね)。
私は加害側にも受動側にもいました。
<加害側>
自ら誰かを仲間外れにしたり、悪口を言うことはなくとも、強く否定はせず、どっちつかずの態度(いや、記憶を美化しているだけで、いじめっ子寄りでした。)をとっていました。
ー自分が嫌われないようにすることでいっぱいいっぱいだったからー
<受動側>
受動という表現を選択したのは、どうも世間で”いじめ”というとそのハードルが上がるからです。
生徒が自殺したとしてもかたくなに認めない学校のニュース見たことありませんか?
正直”いじめ”の概念に当てはまるかなんてどうでもよいです。
ただ、”傷ついた”その事実があるんです。
あの当時の私は自分を受動側とは思っていませんでした。
あくまで自分はいじられている(愛されている)と解釈していました。
だって、そうじゃないとまっすぐ立っていられないから。苦しいから。
自分が受動側だと認めたところで日常は変わらないんです。
そんな状況下でどうして更に自分の首を絞めるような(自分が弱いと認めるような)ことをしなければならないのでしょうか。
小学生だったあの当時の私には無理でした。
大人になって、向き合えるようになったから書きますが、苦しい日々でした。
リーダー格の子がおんぶはまってしまったせいで、私は毎日毎日成長期の体で彼女をおんぶしていました。
断るそぶりを見せようものなら、私は悪者です。
「嫌なの?私のこと嫌いなの?」ってね。
そこに流れる空気が嫌で私は、ニコニコ笑い一日合計1時間以上おんぶをしていました。
彼女は絶対でした。
彼女が早く家に着きたくないと望めば、通常30分の通学路を3時間かけて歩きます。
彼女がブランコをしたいと言えば、苦手であってもひたすら二人乗りをします。
私は「こわいよ~」って笑いながら。
楽しいお友達なのです。決して上下関係なんてない。対等な…
仲間外れにされていないのだから嫌われてはいない。まだ”マシ”だ。大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせていました。
もしかしたら私のエピソードを読んで私より”マシ”という感想を持たれた方もいるでしょう。
…
見出しにもしましたが、”マシ”ってなんですか?
なんで苦しさ、悲しさを相対的に見なければならないのか、なぜ比較されなければならないのか。
あの当時の私に行ってあげたいです。
「マイナスの感情に”マシ”なんてない」と
ただその感情に正面から向き合って辛いなら辛いで良いと…
なぜこのnoteを書こうと思ったか、そのきっかけはコロナウイルスです。
今コロナの影響で苦しんでいる人が沢山います。
経済的に苦しい人、健康面で苦しい人、日常生活、学校生活で苦しい人…
右を見ても左を見ても胸が痛くなります。
そんな中、他者に対して「貴方は~よりは”マシ”だよね」という発言を目にします。
”マシ”って何?
辛いものは辛いんです。
本人が踏ん張るために、明日の活力の為に「”マシ”」と思うのは良いですが、勝手に他者が「”マシ”」だと判断するのはいかがなものでしょうか。
”生きていればそれだけでいいじゃない(with菩薩のような笑顔)”みたいなことを言う人もいますが…
私のような余裕のない人間は到底そんな考え方は出来ません。
たとえ致命的じゃなくとも、少し赤くなった程度のかすり傷でも痛いものは痛い。
むしろ目立った外傷がないほうが、他者から”その程度耐えなさい”と思われるから辛い。
じわじわ染みるけど気にしていない素振りで過ごさなきゃいけないから辛い。
お風呂に入った時みたいに突然急激な痛みがくることだってある。
かすり傷がいくつもあったら、それは”たかが”かすり傷じゃありません。
致命傷なのです。
無責任に”マシ”だなんて言わないで。
【追記】
ちなみに、もしかしたらなぜ加害側の時助けなかったのかというお叱りもあるかもしれません。
ごもっともです。私は今でも手が差し伸べられなかった自分が憎いですし、恥ずかしいです。変えることのできない過去が苦しいです。
何よりあの時自分の正義を貫けなかった自分が一番嫌いです。
でも今回伝えたかった論点から少しずれてしまうため、そのあたりの気持ちは僭越ながら省略させていただきました。
また機会があれば書かせてください。
最後までご一読いただき、誠にありがとうございます。