コーヒーと円筒
「Eastって、西っぽいよね」
初めて上がり込んだ彼女の家で、沈黙を恐れた僕は言った。彼女は小さく笑って、それ以上何も言わなかった。鉛色の空を見やると、雲の隙間から濃紺の空が見えた。ひどく寒い夜で、エアコンを付けても部屋はなかなか暖まらない。僕は白い息を吐きながらセーターの毛玉をこねくり回していた。目を閉じて何か音を求めた。近くの公園で若者たちが騒いでいる。誰かが誰かの家のインターホンを鳴らす。インターホンの音は二度聞こえたけれど、ドアが開く音はしなかった。小さな足音がだんだんと大きくなっていく。サイズの合っていない鼠色のスーツを着て、うつむき加減に歩く中年男性を想像した。襟には虱がついていて、合成皮革の靴は埃をかぶったような色味をしている。かじかんだ手でスマホをポケットから取り出し、マップを開く。老眼が始まっているのか、スマホを極端なまでに自分の目に近づけ、眉をしかめて画面を凝視する。画面は乾燥した手をうまく認識せず、マップは日本全体を映している。彼は目をぎゅっと閉じると、上を向いて満天の夜空を想像した。僕はそこまで想像すると閉じた目を開けた。目の前の壁は漂白したみたいに真っ白で居心地が悪かった。
「何かポスターでも貼ればいいのに」僕は小さな声で言った。「キョンキョンとか、中森明菜とか」
彼女はそれに答えずコーヒでも入れようか、と言った。僕の目の前には飲みかけのコーヒーが2つあったが、僕はそれを見つめたまま、おねがい、と言った。彼女が僕の背後で立ち上がった。むき出しのフローリングが軋むような音を立てた。ずっとあぐらをかいていたら、左膝が痛くなってきて僕は両足をまっすぐに伸ばした。斜め上を向いて自分の髭を触り、もう夜だなと思った。
突然インターホンが鳴った。彼女はキッチンから玄関へ向かい、チェーンを付けてからドアをそろそろと開けた。誰が来たのか確かめようとして目を凝らしたが、ちょうど彼女と重なってその姿は見えなかった。小声で何か話している。僕は見ることを諦め、目を閉じて声を聞こうとした。僕の目は空を飛び、彼女と男がドア越しに話しているのを斜め上から見ることができた。
「昨日はごめんなさいね」彼女はニヤリと首を傾けて言った。
男は白い息を吐き、手をこすり合わせると、スラックスのポケットから紙切れを取り出し彼女に渡した。彼女はそれに何か書きつけると男に返した。男は歯を見せずに笑い、再び手をこすり合わせた。彼女はにこやかな顔をして、男の腹を殴った。どすんと鈍い音がした。男は苦しそうに汗をかきながらも笑顔を絶やさないようにしている。彼女はドアを閉め、ゆっくりと鍵をかけた。そして大きく息を吐くと、鼻歌交じりにコーヒーを入れ始めた。僕は目を開けた。空はいまだに鉛色だったが、雲の隙間からは大きく黄色い目が寂しそうに僕を見つめている。彼女はコーヒーを2つ、きれいにお盆に載せて持ってきて、机に置くやいなや振り返ってキッチンの方へと戻っていった。口の中に残るコーヒーの匂いは酸化して、唇はねばついた液体に侵されている。彼女の淹れたコーヒーは少し酸っぱい香りがした。僕はそれを一口すすると、豆の甘い匂いが鼻へ抜けた。ほっと小さく息をつき、軽く背伸びをすると、スリッパを履いた彼女がにこやかな顔をして僕の背後に立っている。手を後ろに組んでいる。右手にはナイフを握りしめ、その柔和な瞳の奥から僕の命を狙っているのだろう。
「キョンキョンは嫌いなの。だってまだテレビに出ているじゃない」彼女は落ち着いた声でそう言うと、組んだ手を振り上げた。ああ、ナイフじゃないのか。でもこっちのほうが痛そうだ。バットで殴られるなんて、いつ以来だろう。そういえばすごい小さい頃、エラーした僕のお尻をコーチがバットで殴っていたっけ。でもあんまり痛かった記憶はないな。彼女は円筒状のものをゆるゆるに解いて、真っ白な壁に貼り付けた。「私、山口百恵が好きなの」