ハーゲン
その日の午前中は常にバタバタしていた。部下が提出した書類は誤りだらけだったし、わけの分からないクレーム電話に小一時間対応する羽目にもなった。電話をかけてきたのは厚化粧をして真っ赤なジャケットを羽織って大きな真珠のブレスレットをつけた六十歳くらいの女性で(もちろん私の想像にすぎない)、昨日からテレビがつかないという内容を伝えるのにおよそ三十分かかった。
「ですからね、昨日の朝にNHKのニュースを見ていたんですよ、知ってます?昨日ね、あ、昨日の昨日ですから一昨日ですかね、一昨日の深夜にね、うちの近所の美術館からとっても有名な絵が盗まれたんですって。あ、そうだわね、あなた私の家の場所なんて知らないですもんね。まあね、とにかく、とっても有名な絵がね、まあそんなに有名ってわけでもないのかもしれないのですけどね、だってその画家の名前を私は存じ上げませんでしたからね、なんて名前でしたっけ。覚えておいでです?長い名前だったんですよ。あんなの私には覚えられません。あれ、わたくし何の話をしていたのでしたっけ」
とまあこんな具合だった(このあと昨日のプロ野球の結果について彼女は十分話し続け、昨日届いた素麺の魅力について十五分語った。テレビの話に戻った頃にはすでに五十五分経過していた)。ちなみに件の事件は三日前の夜十一時すぎ、青山にある小さなアトリエから、郊外にある小さな美大で講師をしている佐々木昌彦さんの抽象画が盗まれたという話だ。大して長い名前でもないし、大して有名な画家という訳では無い。Twitterで実名を出してはいるが、フォロワーは四桁に及ばない程度だ。とにかく彼女はその事件について長い時間語ったのだ。まあ災難はこれだけではないのだが、これ以上書いたところで変な同情を生むだけだし、それは私の望むところではないので割愛する。とにかく、その日の午前において私はひどく疲れたのだ。
十二時三十分から一時間の昼休みが始まるのだが、強い便意に襲われて、三十一分にはトイレに向かった。しかし案の定と言うべきか個室は全て埋まっていて、上の階をいくつ調べてもそれは皆同じだった。嫌な汗をかきながら四階分の昇り降りを二往復してようやくトイレの個室が空いた。普段なら和室に入ることは無いが、事態は一刻を争っていた。トイレを出る頃には十二時五十五分になっていた。仕事机に戻ると朝コンビニで買ったおにぎりを一息で飲みこみ、買いだめしてあるスーパーオリジナルの緑茶を飲んだ。Twitterを開いて適当に画面を眺めるも大して面白いつぶやきも無く、なんとなく陰鬱な気持ちになったので、机に転がっていたMONOの消しゴムのケースを、消しゴムのサイズに合わせて綺麗にはさみで切った。すると脈絡もなく突然強い睡魔が襲ってきた。休み時間は残り二十分で、昼寝をするには少し心もとない。眠気覚ましにオフィスを出て、向かいのビルにあるコンビニに向かった。職場前の通りは広い通りと言う訳では無いけれど車通りがわりに多く、目の前の横断歩道はなかなか青にならない。急に時間を取り返したくなり、妙にイライラして両足をバタバタさせた。向かい側に結構な美人がいて、その目の前で大人らしいとは到底言えない行動をしてしまったことは後悔している。しかしいずれ横断歩道は青になるし、美人は私のことなど見向きもしない。とにかくコンビニに入った私は眠気覚ましのコーヒーを手に取ってから店内を物色した。何か目的があって来たわけではなかったが、コーヒーなら会社内で買うことが出来るので勿体ない気がして、なにかもうひと品買おうとしたのだ。目に止まったのはハーゲンダッツのクリスピーサンド、たしかキャラメル味だったと思う。今年で34歳になるが、ハーゲンダッツを買う時に躊躇うのは昔から変わらない。ラーメンを食べるのに躊躇いはない。ビールを買うのに躊躇はしない。しかしハーゲンダッツは違う。むしろ私を常に躊躇わせるのがハーゲンダッツがハーゲンダッツたる所以なのだ。それでも今日はひどく疲れていたし、最近特に大きな出費があった訳でもないから、意を決してレジへと向かった。小銭だけで買おうとしたが、あと二十二円足りず、1万円札を使う羽目になってしまった。店を出るとすぐに箱を開け、袋を破った。少し興奮していたのか、袋を捨ててしまい、手で直接サンドを持たなければいけないことになってしまった。自分の目線の少し上にサンドを掲げ、太陽を背景にひとつの抽象画を描いた。逆光でサンドはその特徴を失い、楕円形の抽象物としてなにかの象徴になった。空は一面の青空で、なにかが到来するかのようだった。私だけがこの画を見ることができる、目を細めてその魅力に取り憑かれる、自然と雑音は消える、目を閉じてその世界に浸る。目を開けるとそこにハーゲンダッツはない。烏が羽ばたいていった。周囲の音がまるで流しっぱなしのウォークマンにイヤホンをつけたように突然大音量で流れ出した。わたしは呆然と立ち尽くした。