映画批評にみる分断――稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』を読んで
映画が好きだ。学生の頃は、よくレンタルビデオ店に通っていた。たしか毎週水曜は旧作5本で1000円とかで、自分なりにどんな作品を組み合わせるか考えるのも楽しかった。
映画の話も好きだ。映画館で誰かと一緒に観なくても、後日「あのシーンがよかった」「あの俳優の演技がよかった」と話すのは楽しい。だから『シネマこんぷれっくす!』や『木根さんの1人でキネマ』のような映画の話をする漫画も面白い。
映画が芸術なのか娯楽なのかはさておき、この「好きだ」という気持ちに偽りはない。だからわざわざ(なんて思わないかもしれないが)映画館にまで映画を観に行ったり、余暇時間を当てたりする。映画に限らず、読書だったりグルメだったり温泉だったり、そこには単に個人の嗜好があるだけだ。
でも最近は、そういうわけにもいかなくなっているみたいだ。今回読んだ稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』では、若者世代を筆頭に、作品それ自体を鑑賞するのではなく、他者とのコミュニケーションツールとして消費することを目的として、早送りや10秒飛ばしが習慣となっていることが(しかも彼らに罪悪感はなく)述べられていた。
もしこの議論に関して意見を表明するならば、言うまでもなく「倍速視聴否定派」だが、そもそも他人がどう映画を観るかは気にならないし、「倍速視聴肯定派」は、映画を観る別の目的があるのだから、批判の対象にはならないと思う。一つ付け加えるならば、ただ周囲や時代に流されて「早送り」するのではなく、自覚的にそれを行っている必要はあると思う。
ここで今回考察したいのが、本書の中盤以降で取り上げられていた「評論への忌避感」である。評論を読むことだけでなく、評論(とまで言わなくても感想や意見)を書くことにすら抵抗があるという。
僕もかつて映画を観る度にレビューアプリ「Filmarks」を使って、簡単なあらすじや感想を書いていた。初めの頃は短い文章しか書けなかったものの、段々とそれなりにレビューらしきものが書けるようになって嬉しかった。フォロワーや知らない人からの「いいね」が嬉しかった。
ただどこからか欲張ってしまったのだろう。本書で言う「上位互換」のレビューにどうしても引け目を感じてしまうようになった。決め手は、北村紗衣著『批評の教室』(2021)を読んだことだったかもしれない。
北村氏の「作品に正しい解釈はありませんが、間違った解釈というものはあります。」(同書、p27)という言葉には励まされたし、「ストーカー」になるべく、「探偵」になるべく、「金属探知機」を持つべく、映画を観る心構えというものを教わった。
しかし同書において、著者とゼミの学生による『華麗なるギャツビー』の批評がガチすぎて、所詮は知識でマウントを取る、稲田氏の表現を借りるならば「〝知の運動神経〟披露会」(同書、p227)であるという被差別意識を感じずにはいられなかった。
この「深淵的な境界」は、映画の批評に限ったことではないと思う。例えば文学研究者による小説の解釈。そこには膨大な読書量と知識量に裏打ちされた、「正しく」て「個性的」でそれゆえ「権威的」な文章が並べられ、本来比べるべきものではないと分かっていても、無力感を抱かざるを得ない。
そして僕が仕事にしている「介護」もそうだ。研究者や施設経営者たちが書籍やセミナーで熱心に「ケアとは何か」、「あるべき介護像とは何か」論じているが、その実践の場に立つ介護職員の多くは置いてけぼりなのである。この「理論」と「実践」の乖離については、個人的に学生の頃からの問題意識なので、また別の機会に論じられたらと思う。
少し大袈裟な話をすれば、アメリカのトランプ旋風を筆頭にした「民主党を支持する都市部&富裕層」vs.「共和党を支持する地方&貧困層」、直近の話題ではフランス大統領選における「マクロン氏を支持する都市部&富裕層」vs.「ルペン氏を支持する地方&貧困層」のような、「社会の分断」と重なる部分があるのではないだろうか。
なんだかレンタルビデオの話から飛躍しすぎてしまったが、本書で「早送り」をする若者層の背景に生活苦が挙げられていたように、他者を理解するという余裕がなくなっているのだと思う。「理解できない」、「わからない」ということがネガティブに、人々をより分け隔てる深淵として存在してしまっている。
ここから「ネガティブ・ケイパビリティ」や「中動態」などの概念を使って論じることもできるのだろうが、それもまた知識によるマウント感は否めない。とりあえずここで言えるのは、「理解しようとする」べきということだ。本書では「早送り」する人たちの外的要因や内的要因が広く論じられていたが、それによって少なくとも彼らを理解するための「土壌」はできる。「早送り」しようとは思わない、けど「早送り」する人の気持ちもわかる(もしくは、わからなくはない)。
そもそも映画や読書のメリットを一つ挙げるならば、「他者性」の獲得というものがあるはずだ。そういう意味では、映画の「早送り」や本の「速読」をする人たちはそういうものを度外視していることになるが、彼らの行動を否定するのではなく、「理解しようとする」こと。先進国が「発展途上国」を導くというようなコロニアル的な思考で、「早送り」や「速読」のデメリットをあげつらうのではなく、互いに尊重し合う対等な関係性(やっぱり「ケアの倫理」なのか?)を築けるように努力するべきなのだろう。