DAY12 「言葉にする」ってどういうこと?

 いや、そうやねん。日記なんやけど、なんでか、太陽の出てる時間帯に全く捗らんねん。

脈絡のない前置き

 実は月曜(祝日)、朝のオンライン学習会が終わって、早めの昼ごはんを食べて、暇やし、日記でも書くかってpcの前に座って。

無。

なーにもかきたくない。なーにも。
不思議やね。

今?三時半よ。朝。なぜか目が覚めた。バッキバキ。こういうことよくある。でもこういうとき無理やり眠ろうとしてもあんまりよくないから一回起きることにしている。で、こんな時に本当にタイミングよく、書きたいことは湧いてくる。

 数少ない友だちのうちの一人が、いつも私の「くそなげぇポエム」にとても丁寧な感想?レビュー?フィードバック?をくれる。それがとてもうれしくて、私もいつかくそなげぇ返信をしたいなと思っていた。そんな時に来た連絡。

「久しぶりにかいたら4000文字になりました」

わかる〜爆


絶好のチャンスをありがとう。今から書くね。
以下、私信になります。

友人へ

 首もげるかと思うくらい頷いたフレーズがあったのでそこから話すね。

「言葉にすることで削ぎ落とされてしまうものがある」

友人のnoteより

 それな???わかる〜〜〜わかるよ〜〜〜〜。

 なんか、同じかどうかはわからんけど、私、時々絵を描くんやけど。ある程度想像通りのものが描けることってまあなくてさ。でも、描きながらなんとか理想に近づけたり、描きながら理想が変わってったりする、みたいな感覚、伝わるかな。料理も、時々そう言うことが起こるかなと思う。絵とか料理だったら、「まあそれも一興」って余裕で味わえるのに、なぜか「言葉」はすごく抵抗感があるよね。そのちょっとの違いがすごく大きく、そして大げさに感じてしまって、なんかダメ、みたいなこと、私もよくあります。
 この時のこの状況/感情/空気感を、「より伝わるように」とか「より正確に」とかってすると、何かが歪むよね。パレットの上にいろんな絵の具を載せて、ああでもない、こうでもない、ってこねくり回してるあいだにぐちゃぐちゃになるみたいな。そして、鮮やかだった記憶の中の風景もどんどんパレットのぐちゃぐちゃに上書きされてしまって、うまく思い出せなくなっちゃう、みたいな。言葉にするっていうことは、すごく不確かで、難しくて、正解なんてなくて、大変な作業やんな、わかる。
 最近パレットこねくり回して思うけど、自分のありのままの感性を伝えるって言うのは、結論、無理なんじゃないかなと思う。結局こうやって文章にしてしまうことで、多少(私の場合は多である)外ヅラ気にするみたいな部分が出てきてしまうんよ。で、じゃあ、noteにアップせんかったらいいやん、メモ帳にでも書き散らしたらいいやん。って思うんやけど、それも的を射てなくて。なんでかって、私がいちばんかっこつけたい相手って、私自身なんやな、って、今書きながら思った。
 自分に対してかっこつけたい気持ちって、もうそれは公開しようがしなかろうが関係ない。唯一あるとすれば、書いてその場で燃やすことかな。エコじゃないし危ないからやめとくな。
 書いてると、カッコつけたい相手は、どの自分なんだろうか、ていうまた別の問いも思い浮かんだよ。それは、いつか読み直すであろう未来の自分?それとも、その体験をして感動した/傷ついた/どっと疲れたetc… 過去の自分なんかな。わからんな。ここに置いておいたらいつかそのときが来たら答えが見つかるかもしれん。

 ただ、書くことで癒せる、書くことで昇華できる、書くことで決着がつく、みたいな感覚も自分の中ではあって。かっこつけたいだけじゃなくなってきたのは、最近かな。雑な日記を書き始めてからかもしれんね。絵の具じゃなくて、画材を鉛筆みたいなシンプルなものに変えた感覚。色はこの際どうでもええわ、形だけ残しとけ!みたいな笑 やから訛りまくりやし、一文長いし、カッコ多用してるし、句点もうちまくりで、ほんま、人に読ませる文章ではないかな、って感じ。

 でも、ときどき、自分が感じたことを、ちょっと演出して、たとえばおどけてみたり、比喩を入れてみたり、周りの風景に視線向けてみたり(あんまり羅列すると恥ずかしいからこの辺にしとく)して書いた部分を、「栗の文章って感じ、この部分とか」って、見つけてくれる友だちもいたりして(あなたものそのうちの一人です。いつもありがとうね)、そういう時は、「ああ、私の文章、っていうものがあるんやな」と思ったりする。そして、(ただただ読みにくいってことじゃなかったええねんけどな…)とこっそりびびったりね笑

 DAY11で書いた、「忘れるためのふりかえり」もあるけど、今回みたいに、フと思ったことや問い、それも今すぐ答えが出そうにない思いつきを、書いて残しておくのも面白い。未来への宿題は増やしたくないけど、でも問いを考えるのって楽しいやん?未来へのちょっとしたプレゼントというか、時限式のおやつみたいな。…うん、この喩えは的確じゃないな笑
 でさ。なーんか長文書いていると、「いっちょ読み物として成立さしたりますか」みたいな文学性のようなもの(いや実際にはそんなええもんじゃないケド)がエゴエゴしく出てくるけど、そういう外ヅラの部分も、「若ぇな、自分」で流せたりするようになってきた。言葉にすることで、なんかそのままじゃなくなっちゃうけど、「そのまま保存すること」がそんなに大事でもないな、と。削ぎ落とした中に残ったものが「今の自分が残したいもの」なんかなって思うよ。で、きっといつか振り返って読んだ時には、その残り滓を記憶のトリガーにして、もっと別のものが得られるかもしれんな、とも思ってる。
 もしかしたらあなたはそもそもの「保存」それ自体にも懐疑的なんかもしれんね。また話したい。

 そう言う意味では、この文章で、またあなたと「共にいる」ことができている気がしてる。どうだろう。そういう感想、的外れじゃないかな。的外れじゃなかったらいいな。

読んで、「出会う」プロセスはこんな感じ?と書き出してみたんやけど、

出会う
→共にいる(共にいない場合もある)
→湧き出る何か(感情?実感?)
→言葉にする(しない場合もある)
→あとで思い出す(思い出さない/思い出せない場合もある)
→また出会う(出会わない?)
以下ループ

なんかな?これも、自分がこれまであんまり意識してこなかった部分。「目の前にいるのに出会えてない」「同じときところに身体を置いているが、共にいない」というのが、不思議な感覚というか。
 「出会う」とか「共に」と言う言葉に対して、一般的、かつ私が持たせている意味以上の意味・意義を持たせているんやろうね。それはあなたの生き方そのものに直結している部分なんかな。また教えてね。

 教えてねって言われたって、それが正確に言葉にできてたらもうしてんねん、ってことなんかな、とも思ってる。だから言葉にならんっていうてるやん、と。言葉にすることで、かえって本質から遠ざかってしまうもどかしさ。わかる、わかんねんで。
 でもさ、やっぱり共有するときには、かたちで欲しい。特に私、めちゃくちゃ鈍いから。「見える」「聞こえる」「触れる」世界の中で生きてるから、空気感とか雰囲気、裏読み、心、とかぜんぜんわからん。そういう私みたいな趣のない人種とも、「共に」あろうとするのであれば、ぜひ、長ーい時間をかけて、(時にはパレットをぐちゃぐちゃにしたり、洗ったりしながら)少しずつ少しずつ言葉にしてもらって、そしていつか教えて欲しいな〜と思ったりしています。わがままかな?笑

 長くなったけど、あなたの文章の返事を書く中で自分の中にもいっぱい発見があって、気づかされて、こんな機会ってなかなかないよな〜と思っています。ほんまにありがとう。

 また読ませてね。んで喋ろ~。

2024/10/18 4:41

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