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DAY13 黄金の三日間なんてない
今日、いつもの倍、前置き長いから目次置いとく
主任「黄金の三日間」って知ってるか?
「黄金の三日間って、聞いたことあるか?」
「最初にこれだけは許さない、っていうこと3つを伝えるねんで。
最初の三日間、ピシッといったら1年間大体大丈夫や。がんばりや。」
初任者の四月。初任者担当兼、学年主任がはじめのはじめに教えてくれた言葉。(その先生とは、その後ご縁があってまた別の学校でも同勤する…)
当時、私は一年目で、だいたい仕事のことも大人のことも、もちろん子どものこともナメてて。無責任で、我儘な、態度の悪い、典型的な「嫌な新人」だったな。…まあ、今でも「嫌な中堅」ではあるんやけど。
そんな嫌な新人でも、一応、教えてもらったことはそのまま実践するわけで、何が許されへんかな?などと、三つの約束を考えたものだ。ほかにも、こういう声かけをする、とか、「褒め言葉のシャワー」とか、色々、教えてもらって実践した。
何回かの春を繰り返し、いつからか、「黄金の三日間」に重きを置かなくなった、というか、ある程度力を抜くようになったように思う。きっかけはあったのかなかったのか、黄金の三日間とかいうおまじないみたいな言葉を信じなくなっていたし、そんな言葉の存在も忘れてた頃。
「先生はこの三つで叱ります!」
「叱る、と怒るの違いはね〜?」
「行動、じゃなくて考動」
と、まあ、威勢のいい「学級びらき」(という言葉も今や好きではない)を展開しているクラスを見かけた。
わ、わあ……黄金の三日間や…(褒めてない)
ああいうの、やめたのいつからかな…
考えても覚えてなかった。
自分像と、指導の乖離
そもそも、「叱る三つのこと」と高らかに宣言して、その約束をいつまで、どのくらいの覚悟でやり切るか、みたいなところに自信がなくなってきたんよな。なくなってきたというより、自分との乖離に気づいた、気づいて強く意識した、という方が近いかも。
ざっくり、「人に偉そうなこと言えるほどちゃんとしてへんよな、自分」と。もともとの性質として約束を守るとか、物を大事にするとか、人としての(大人としての?)誠実なふるまいのベースになるようなものの部分に全然自信がない。約束忘れるし、物無くすし、口軽いし、普通に失礼なこと言うし、するし。(先日「保持」に大きな課題がある、とTwitterで誰かが抽象化してくれていて膝を打つなどした。→DAY11の内容と重なりそうな気がする)
「ちゃんと」が苦手なのに、子どもに「ちゃんと」を強いるのか。
会議中イライラして頬杖ついたり、議案の端にほとんど悪口のような似顔絵を描いたりしている自分が?真面目な話をしていただいている(まあ簡単に言うと怒られている)時に、全く関係ないことで思い出し笑いを堪えきれずニヤついてさらに怒られるような自分が?
ムリムリ。「黄金の三日間」とか、ちゃんちゃらおかしいな。やっぱり。いや最初から違和感はあったけど、何回立ち止まって考えても、自分にはなじまないな、と思う。
発表の感想(ここから本編)
なんで急にこんなことを言い出したかって、(なんとここまで前置きなのである)友人🐊が「黄金の(とは言ってないが)三日間」の質的研究をしていて、その発表を聞かせてもらったんやけど。
それが、ヒントのような、フックのようなものになって、ぼんやりと感じていた「黄金の三日間とかウソやん」っていう長年の疑問というか違和感に、自分なりのアンサーを持てた気がするな、っていうことを伝えたくて。(婉曲表現が多いのは考えがまだぼんやりしていることの表れ/読みにくいよなごめん)
発表の中で、
①「自分が大切にしていること」に対して、無自覚なことがある。
②「自分が大切にしていること」は三日間、継続して声かけしたり語ったりしていた。
ってあって、この二点は、「そうやんな」そして、「だれしもそういう面があるんやな」と思ったよ。
無自覚な「モットー」
①「「自分が大切にしていること」に対して、無自覚なことがある。」これめちゃくちゃ心当たりあって、8年目の時に教育実習生が来たんやけど、そん時に初めて「自分ってめっちゃめあての文言こだわるタイプなんや」「展開の自然さにこんなに命かけてるんや」っていうことに気づいたんよ。それまでは、どっちかというとワークシートの美しさ〜、とか、問い返しの技術〜とか、詳細でかつ無駄のない教材研究〜とか、そういう部分が自分の強みであり関心やと思ってたから、授業のことを語ったり、教育実習生に授業の感想を伝えたり、そして時々は質問してもらったりしながら気づいた部分やったんよな。そういえば、って。
それまで無自覚だったのに、自覚してしまえば、たしかにめっちゃこだわってたな笑って。こんな強く気を配ってるのに、自分でも気づかんっていうんやからおもろいな〜、とか思ってたことがあって。
やから、インタビューによって、その部分の言語化を手伝ってもらった研究対象の先生がちょびっと(いやかなり)羨ましかったりする。そういう深い話をある程度切実に、腹割って話せる機会って、あんまりないよね。とくに今、令和やしね。
まあ、日々振り返りを書いたりこうやって時々日記に書き散らしたりして自覚的にアウトプットして(そしてGeminiさんに投げつけて壁打ちして)いけば、そのギャップも埋まるかもしれんけど。(でも、いまだに、完全無欠のメンターが私を導いてくれて楽ぅーに天竺に辿り着くコース(それはまるで白馬の王子様とゴールインするかのような…)をまだ夢見ちゃう自分がいる笑)
「その人らしさ」は滲み出る
んで、②「「自分が大切にしていること」は三日間、継続して声かけしたり語ったりしていた」なんやけど、それも「わ〜」よ。「わ〜」。いい意味で。
そりゃそうよね。自分が大事にしてるんやから、何回も伝えるわな。それもいろんな手段や方法を用いて、ことあるごとに、隙あらば、伝えるわな。態度でも、表情でも、もしかしたら体の向きや座り方とかでも、伝えてるんやろうな。しかもそれに自覚あったりなかったりするんやろうな。
それってもう、伝えてるというようりは、滲み出てるよね。出汁出てると言うか。正露丸と同じ棚に入れてるから、うちのバファリンもビオフェルミンもみんな正露丸のにおいになってるよね、みたいな。(ちゃうか)
いや長年、不思議に思ってたんよ。
「なんで毎年、この人の学級ってこの空気感になるんだろう?」
だってよ?子どもちゃうし、学年もちゃうし、なんならその先生も年齢重ねてるやん。組んでる学年の教師も違うし、専科で入ってる人のメンツも変わってるわけやん。でも、なぜか、だいたい、同じ時期に同じ精度で、「その人のクラスの空気感」になる。それは時にいい意味だったり、悪い意味だったりするわけやけども。それって、なんでなん?ってずっと思ってた。とりわけ、今年は強く思ってた。それって、ただ単にそうなるようにし続けてる結果ってことなんやなあ、って。
いつも自然体で
え、ってことはよ?頭の先からつま先まで、全身で常に何かの信号を発信しちゃってる状態てことよね。わ〜大変。名優でもそこまで意識せんよ?したとてカメラ前で、決まった画角内で勝負したらいいんやん。カットもかかる。でも私たち教師は?8時間ぶっ通し全方位全身演技???ムリムリ。
てことは、やっぱり、素顔の自分でいる必要があるってことなんかな。
だって、口でなんぼええことゆうても、ボディーがそう思ってなかったら、どう言うメッセージになる?「ぼくは言ってることとやってることがチグハグの人間です」っていうメッセージを子どもたちは受信するわけよね。こわ。口で言って、実際に動いても、顔に「あ〜だるすぎる」ってかいてたら?「有言実行するタイプです、でもめんどくさいとは思ってるよ」っていうメッセージになるよね。こわすぎ。
と想像して、「結局人間力やん…」って、元も子もないところに発想が着地して、大変ゲンナリしてる。(徳のステータスバーが激短やからさ…)
まあ、徳は、積めばいつかはレベルアップしていくものではある、と、思うんや、けど…。ほら、HPとかMPとかのステータスバーみたいに…それもまた途方も無い千里の道ではあるよね…一歩ずついこうぜガンダーラ。やっぱり法師急募で爆
そういう意味では、「黄金の三日間」に伝えたいことは、「規律」とか「理想」とかではなく、「決意」かもしれん。
私はこういう人です。こういう時幸せになって、こういう時イヤ〜な気持ちになりやすいです。みんなとこう過ごしたいです。私のこと知ってね。そしてあなたたちのこと教えてね。みんなでできるだけ幸せな時間を共有したいと思ってんねん。そのために、こういう担任でありたいねん。頼んどくわな。
ていう、「決意の三日間」だったら。
自分にもできるかな?
「決意の三日間」
最初の三日が「決意の三日」であるとするならば、そもそも声かけも変わりそうな、そうじゃないような。どうなんやろうね。
「黄金の三日間」が、規律がばっちりで〜、話し合い活動が活発で〜、深い学びができて〜、子ども同士仲が良くて〜みたいな、教師の理想像を語る、上から下ろすもの、なんだとしたら、
「決意の三日間」の声かけは、①指導者がその人らしくあるために ②子どもたちがその人らしくあるために どうしていく?っていう、一緒に考えていこうぜBe together! みたいな考え方にマインドチェンジができないかな。
まあ、言葉なんてものは一人歩きするもので、だいたいの場合、はじめに考えた人が願ってつけた名前が世の中で広く使われる頃にはなんかぜーんぜん違う意味になってる、みたいなことはよくあるよな。(最近で言うと「ワンチャン」「蛙化現象」とかがそうよね)それと同じパターンで、はじめに黄金の三日間って言い出した人の願いや思いなんてものはここまで届いてなくて、ただ、「黄金だって、すげぇ」「3歳神話みたいな感じ?」「最初の三日、気合い入れろってことねオッケー」くらいの捉えなんよな。実践ってほんま、インスタントに消費された瞬間に死ぬよね。まあこれはまた別の話やけど。
もし「黄金の三日間」を最初に言い出したのが誰か、原典警察🐊に教えてほしいところではあるな。そしてそのときの思いや願いをもう一度受け取って、考え直したいな、と思う。
初めの三日を丁寧に見て、細かに分析していこう!なんて、自分には発想にもなかった(なぜなら…て部分は十分前述したと思うので割愛)から、またすぐにやってくる春に、どんな振る舞いをしたらいいか(自分が納得できるのか)の、でっかいでっかいヒントをくれた気がしてる。
結局、自分が大事にしたいことって、意識的にしろ、無意識的にしろ、継続的にずっと、言葉や態度で伝え続けちゃってるんよな。それでストイックで自分を律せるタイプの人だったり、勤勉性を持ち合わせていたり、あるいは誠実であり続ける努力をし続けられる人にとっては、決意の三日がずっとずっと継続できる。=黄金の三日間 is/has been/was worked.て感じ。
黄金の三日間 is NOT /has NOT been/was NOT worked.のパターンって、私みたいな、怠惰で、気分屋で、コロコロ言うこと変わる人だったり、意思が弱くて自信の無い人だったり、そもそも深く考えず宣言してすぐ反故にしちゃったりする人なんじゃないかなと思ってて。そして人とは弱く愚かである場合が多いので、NOTタイプになってしまうんよな。そしてそれを目撃して、タイトルの「黄金の三日間なんてない」になってしまう、ってことなんかな、と思う。
時代が変わって、教師の言葉に重みや効力が薄くなり、(それは喜ばしいことであり、同時に大変なことでもある)学校の在り方も変わってきた。学校は、家庭や子どもが努力して登校するものではなく、学校や教師(そして時々行政)が努力して来ていただくものに変わってきた。(このことはまた機会があったら書こうと思って随分前から下書きに眠ってる)
だから、より一層、「自然体」がキーワードになってくるんちゃうかな、と思ったりする。みんなで、無理せず、持続可能(令和っぽい)学校教育でいきたい、是非。けど、切り捨てるんが、願いや思いにならないといいなとも思う、切実に。子どもたちと同僚たちと一緒に、教育に携わっていく時に一番大切にしたいものを常に見つめて、できるだけ大切に大切に、こぼれ落ちないようにしていきたいな。
教師も子供も、自分らしく、みんなで幸せな時間を共有するために、どんな声かけ、振る舞い、マインドがぴったりなんやろうね?
また話そ〜。
2024/11/10/2:12