境界線にいる(2021/3/18)

境界線を含むor含まないって数学の問題にあったけど、当時もよく理解できなかったし今も内容は全て忘れてしまった。

私はどう生きるべきなんだろう。べき、思考はよくないかもしれないけど、最初に浮かんだのがそれなんだ。明日死にますよ、って言われてもまあいっか。ってなりそう。1週間後に死にますよ、って言われても、死ぬまでに誰かに会っておくとかじゃなて、いつも通り仕事に行きそう。在宅勤務だったら多少さぼるかなあ・・・。でも最期まで罪悪感感じそうだな。

不穏なことを書いてしまうが、これから遺書をかくとしたらなんて書くだろう。最近、なぜ自ら死を選んではいけないのか考えている。母親や祖父の死を目の当たりにしてもなお、命の尊さを理解できていない自分が腹立だしいというか、もしかしてすごくバカなんじゃないかと思う。でも、自分が生きることに対してそこまでこだわりないというか、寿命にしても病気にしても、人間が死ぬことができるのは幸せだと思っている。生きることができる幸せもあるけれど、死ぬことができる幸せもある。生きる苦しみもあるし、死ぬ苦しみもあるだろう。死は平等に訪れるが、生きることは平等に訪れるのだろうか。生まれてくることは平等で、生きていく環境を考えたら生まれてきてからは平等ではないのかな。

そんなことを考えているのは暇だからだ、という人がいる。自殺率は戦時中より戦後のほうが多いことから、毎日を必死に生きて、今生きることに集中していれば、そんなことを考える暇はないとのことだ。戦時中の人間のメンタルと比較するのは私には極端に思えるが、とりあえず、一人の時間をあまり作らずに、人と会う予定を詰め込んでみる方法を教えてもらった。
それを試したことがあり、その時は、実際に死とか、その他ネガティブなことを考える時間は減った。けれど、ずっと予定を入れ続ける期間をどのくらい持続させられるかは人によって違うと思う。私は反動が来て、数か月動けなくなってしまった。

これは、内向型の人間を、外向型人間の行動パターンに当てはめるやり方のように思う。自分の内面よりも、外の環境に意識を向けるトレーニングと言えるのかもしれない。その方法を否定するつもりはないし、ネガティブになりすぎないためには時に必要だと思うが、自分に合った期間を決めて取り組むべきだと思う。自分の内面と向き合うことが、たとえそれによってネガティブに陥ったとしても、自身の中で何らかのバランスをとるために必要な人間もいると思っている。私は、そういうタイプだと思う(認めたくない気持ちもあるが・・・)

認めたくない気持ちの中には、自分自身を探求したところで何なのだ、という思いがある。自分と向き合っている時間を、外向的な人みたいに、タスクをこなす時間にしたほうが時間を有効に使えるのではないだろうか。そのほうが、自分のスキルを磨いたり、人に何か与えたり、仕事とかで世の中に貢献できたりするのかな。でも、時間を何に使うかはその人の自由だし、効率的に生きることを強制されているわけではない。ただ、外向型人間のほうが、どんどん行動することにより、人脈とかいろんな経験を得られるからか、資本主義社会には適した人間とされているイメージがある。俗にいう「成功する」ということに価値を置くならば、外向型の人間になりたいと思ったりする。

内向型でいるメリットは・・・と書きかけたところで、これはメリットデメリットで語るにふさわしい問題なのだろうか。
自分が精神的に安らぎを得られるほうに従ったらいいんではなかろうか。メリットデメリットを比較検討したところで、じゃあどちらになろう、と思ってすぐに変われるものではない。
特性として受け入れる、というと、諦めているように思われるだろうか…。私だってほんとは受け入れたくない、こなすべきことに向かって淡々と行動していけたらいいのに。でも受け入れないで逃げていたら、それを取り戻すみたいに内省ループに陥ってしまうことも何となくわかる。頭と心がバラバラ、そんな感じがする。本心では、内向的な自分を受け入れたいはずなのに、理性というか、脳の司令塔的には、そうあるべきでないと言っている。

本心は受け入れるものではなく、コントロールする、克服すべきものであるという考え方をしてしまう。

(以下、自問自答)

・内向的な性格でいるべきでないというのはどういう根拠なのか。
やるべきことの妨げになるから。

・やるべきこととは?
家事や仕事、連絡を返すこと、お金や資格の勉強をすること、遊ぶことも含め予定をたてること、確定申告やマイナンバー手続きなど

・外向的な性格になったとして、必ず上記やるべきことが達成されるのか。
今のままでいるよりは達成されると思う。

・今のままでは、上記のことをすべて達成するのは不可能か?
予定の入れ方次第では、達成されるかもしれない。意志の力だけでやろうとするから、いまのままではできないように思えるのかも。

・そうだとしても、本心を受け入れたくないのか?
本心を受け入れるというのは、甘えているように感じる。自分の欠点に気付けなくなるかもしれない。また、感情的になると、正しい判断ができなくなり後悔するのが嫌。

・やるべきことを達成したうえで、したいことって何だろう。
お金をためて、歯医者のローンを完済する。年金追納分を払い終える。

子供を産んだら、自分が死んではいられないし、自分の内面どころじゃない、という感じで図太くなれるよ、という意見も見かける。逆に、もっと繊細になった、という人もいる。それはその人によるんだろう。
自分はどうなんだろうか。子供を育てられる自信はない。かわいいのだろうと思うが、自分と内面が似た子供でも、愛することができるんだろうか。自分がされて嫌だった接し方はしたくないと思うが、どう接してあげるのが適切なんだろうか。

・今あなたが把握している欠点とは?
怠惰、雑、自分も他人も大切にできない、すぐに落ち込む、ネガティブだ、すぐに自分のことがどうでもよくなる、配慮が足りない、すぐに調子にのる、頭が悪い、卑屈だ、暗い、緊張しやすい、すぐに慌てる、時間を守れないことがある、朝起きられない、常識がない、声が小さい、自信がなくおどおどしている、肌や髪が汚い、食生活がよくない、運動神経が悪く、運動習慣もない、体脂肪が多い、生きることへのエネルギー量がない、お店選びのセンスがない、数字に弱い、グループ内で発言するのが苦手、自己アピールが苦手、謙虚そうにふるまうが傲慢だ、人を信じられない、保身に走ってばかりいる、自己中心的だ、姿勢が悪い、食べ方がきれいじゃない、コツコツと努力できない(すぐに結果が出ないことにやる気にならない)、機械に弱い、ネガティブオーラを周りに与えて不快にさせている、表情が硬い、コミュニケーション能力が低い、返信不精だ、きれい好きじゃない、変だ

・本心を受け入れたら、上記のことは克服できなくなるのか?
それは関係なさそう。受け入れられていない今も、全く克服できていないし、努力しているとは言えない状況だ。疲れたら寝てしまうことだけは従っており、妨げになっているかもしれない。

・だったら本心は受け入れたらどうか。
本心が何なのかもわからない。分からないというのは逃げだろうか…。

・質問変えて、「本心は受け入れるものではなく、コントロールする、克服すべきものであるという考え方」は、何があなたにそうさせたのか?
昔のことを思い出すとなんだか呼吸が苦しくなってきた。

・いつからそう思っている?
小学校4年生くらいから、自分が思ってることノートに書いていた。もうそれは捨ててしまったから読み返すことは叶わないが…。「本当の自分」をずっと探していたように思う。転校して、1からやり直したいと思っていた。それを母親に説明しても理解してもらえなかった。親さえも分かってくれず、自分が傷つき、そしてまた泣くなと怒られるなら、二度と自分の本心に関わるような相談はしないとその時心に誓った。
自分がどうしたいのかよりも、自分が社会に出て困らないようにどうなっていくべきなのかを考えて行動した方が、親のためにも自分のためにもいいのだと信じていた。その目的のためだったら本心なんて、犠牲にしたかった。
本心のままに生きていたら社会では通用しない、というメッセージを家族全員から感じ取っていた。もっとつらい環境でも我慢できる人はたくさんいるのに、すぐ泣く自分は我慢強くなく、精神的に弱いので、社会に出たら苦労するだろう、と周囲の大人は皆言っていた。

感情なんてすべて捨ててしまいたいと思いながらも、そんなことは叶わず、自分の布団の中だけが、泣いても誰にも怒られない場所であり、いつの日か、自分が愛する人だけを自分のテリトリーに入れて、その人には全部受け止めてほしいと願った。

「ありのままの自分から変化しなければ、生きていけない(社会に適合できない)」
今までずっとこれを信じて生きてきたのに、これを手放すのはなんと難しいことか。
手放すには、自分の本心を受け入れたら社会不適合となり、生存できないかもしれない、という恐怖を乗り越える必要があるのだろう。まだまだ先が長い・・・。



以下、思い込みが生まれた要因かもしれない過去の出来事を書いた。
有料記事にしてフィルターかけようか迷ったけどそのまま出すことにする。
【幼稚園】
・風呂場の前で母親に見捨てると言われた。多分泣いたと思うけど、その記憶はなくて、闇に突き落とされたような絶望感だけが記憶にある。その後どういう風に仲直り?したかは覚えてない。
・「しゃべれない女のくせに」といわれた。話すと「あっ喋った!ていわれるのが嫌だから余計しゃべれなくなった。
・幼稚園で、みんなの前で「おはよう」のあいさつの練習をさせられた。みんなの前で声を出すのがすごく恥ずかしいと思った。それで挨拶ができるようになったわけではなかった。
・休み時間一人でいると、先生に見つかってみんなと遊ぶように説得された。実習の先生が来たことがあるが、子供ながらに、自分は目をかけられていることが何となくわかった。
・運動会の練習が嫌いだった。ペアの男の子に意地悪なことを言われるから。私がうまくできないのが悪い、という意識はあった。

【小学校低学年】
・1年生の時作文や絵で入賞した。褒められて嬉しかった。
・字が下手なことを指摘されて泣いた。
・このころから算数が苦手だった。
・おばあちゃんにグズ・ノロマと言われていた。さっさ、さっさと動け、といつも言われていたような。
・小学校に入っても緘黙が治らなかったが、低学年のころはまだ遊びに誘ってくれる友達がいて、孤独には感じなかったと思う。
・授業中当てられたら発言はしてたと思うけど、声が小さいので通知表の音読の項目はCが付いた。
・2年生の時、朝の会で1分スピーチがあり、その担当になる日は学校に行きたくなかった。日直も本当にやりたくなかった。
【小学校中学年】
・みんなと話せないことが一番辛く感じた時代だった。ありがとう、ごめんなさいも言いたいのに言えなくてしんどかった。
・特定の仲がいい友達がいなかったので、クラスで浮いている感じになった。遊びに誘われたら参加していたけど、自分から入れてということができなかったため、図書室とかにいることが多かった。
・昼休み明け、昼休み一緒に遊んだ人同士で座りなさい。という先生からの指示があり、私は立ったまま1人で残ってしまった。同じ状況の人がほかにいなくて恥ずかしいし、悲しかった。
・算数の問題が解けなくて泣いていたら先生に諭されて悔しかった。できなかったら自分の成績が下がると思った
・うまく弾けない→自分にイライラする→親に怒られる→やる気なくなる→練習しないの負のループにより、ピアノの練習が嫌いになった
・この年齢あたりから自分に嫌気がさして、集合写真の自分をボールペンで塗りつぶしたりした。親に見つかって怒られて、もっと落ち込んだ
・イライラしたときは、自分を叩くなど自分に八つ当たりするようになった

〈3/31追記〉

【小学校高学年】
・隣のクラスの先生に、精神が萎えてると言われた
・足が速いわけでもないのに強制的に陸上記録会の練習をさせられた上に、その日たまたま塾があり練習休もうとしたらそんなんで選手になれると思ってるのかと言われた。練習に出たからって自分の運動神経じゃ選手にはなれないことは私がよく知っている。代わりに勉強することも許されないのか
・中学年もそうだったが、先生の機嫌によってクラスの雰囲気が変わるのがものすごく嫌だった
・私のこころを強くすると言ってクラスメイトに辛く当たられた
・↑の人に言い返すと反抗してくる(でも、それも成長)みたいな言い方をされた
・以前は仲良くしてくれた友達が離れていった
・私を見ているとイライラすると言われた
・勉強をさぼっていたら親にこのていたらくと怒られる
・泣いてはいけない場面で我慢できない自分に本当に嫌気がさした

【中学生】
・部活がしんどかった。自分のせいで負けることが多く、ペアの相手をイライラさせてばかりいた
・お前のせいで負けたんだと直接言われたことがあった
・体育の時間、私がチームにいなければよかったのに、という声を耳にした
・家族に対して出来事を話してみても、気にしすぎ、私の思い込みと言われて終わった
・応援練習、合唱の練習で声が大きい人から座らされる練習がすごく嫌だった。いつも最後になってしまうから
・いじめとかはなかったが、みんなに嫌われないかいつも心配だった
・勉強ができても思い上がってはいけない、と家族に言われたし、常に自分に言い聞かせた
・母親にもっと褒めてほしいと頼んだことがある

高校生以降はまた別の機会に。































































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?