自分が中学生ぐらいの頃、普通に、平凡に暮らすことも難しい、と祖母が言っていたのを思い出した。 景気も悪く、就職氷河期のニュースが流れていた頃だったから、ごく普通の幸せを掴むのにもかなりの努力が要る、だから頑張りなさい、というメッセージとして当時の私は受け取った。 本当にそういうことが伝えたかったのかもしれないけど、27歳になった今、特に華々しい経歴があるわけでもなく、かと言って、(現状では)大きな挫折を経験したストーリーを語れる訳でもなく、それほどはドラマチックな人生を送れて
頭に浮かんだ時は面白いと思ったのに、文章にすると途端につまらなくなり投稿できないことがままある
お酒を飲みながら絵を描くことができるという「Art Ber」なるお店を訪れた。 自由に書くというよりはワークショップ的な形式で、ゴッホの作品であるアイリスの絵をテーマに、先生の指導の下、参加者が手順に沿って絵を描き進めていく感じだった。 出来上がった自分の作品を見て、自分がどんな生き方をしてきたのか、滲み出ていると思った。 一言でいえば、当たり障りのない感じ。 ほかの人から評価された訳ではない。むしろ、自己評価がそれであることがポイントである。 今日はそんなことについ
鯖の押し寿司と玉虫厨子で韻を踏めることに気付いた
note、閲覧してはいたものの、自分で投稿をしないまま1年近く放置してしまいました。 文章にすると堂々巡りになってしまうことを心配したり、自分はもしかしたら、今まで自覚しなかっただけで文章が苦手なんじゃないかと思ったり、書こうかな、でもなあ…を繰り返しておりました。 一番の理由はもっと優先すべきことがあったからなのですが、一旦書いておくなら今だな、と思い記しています。 きっかけとなった出来事としては、先日、学生さんの書いた記事を読んで、みずみずしい文章だなあ、という感想
相手を先に信じることで、結果的に自分に自信がつくことがあるなあと思う。
境界線を含むor含まないって数学の問題にあったけど、当時もよく理解できなかったし今も内容は全て忘れてしまった。 私はどう生きるべきなんだろう。べき、思考はよくないかもしれないけど、最初に浮かんだのがそれなんだ。明日死にますよ、って言われてもまあいっか。ってなりそう。1週間後に死にますよ、って言われても、死ぬまでに誰かに会っておくとかじゃなて、いつも通り仕事に行きそう。在宅勤務だったら多少さぼるかなあ・・・。でも最期まで罪悪感感じそうだな。 不穏なことを書いてしまうが、これ
昨年訪れた国立西洋美術館で印象的だった絵画。 この絵を見たとき、なんだか自分を見ているようだと思った。見れば見るほど、この絵の女性の持つ雰囲気に自分と似たものを感じた。 高校時代、部活の仲間が私の物真似をしているのを見て、ああ、私ってこんな風に見えてるんだな、と思ったときと同じ感覚だった。そしてそれは、決して良い印象ではない。 何故そんな感覚になったのか考えてみると、緊張している時、本当にこの絵の女性と全く同じポーズをしてしまうことがあるからだ。表情もすごくこんな顔して
頑張った結果なのに、苦労をしていないと言われてしまう 話を聞いてもらったり、癒しを得るには正当な対価が必要だと思ってた。だから、大学内の無料カウンセリングも辛くなってやめた、定期的な予約なので、元気な時も、蒸し返すようなことを聞かれるのも嫌になった。それも社会性だからね、という言葉がずっと引っかかっている。数年前言われた、社会不適合者、自分のことしか考えてない、もっと大人になれ、という言葉が思い出され、私に欠けているのはそれなんだな、まだ、社会に出てから困るよ、と言われている
誰にも見られない前提で 完結しなくてもいいという前提で 矛盾があってもいいという前提で そうじゃないと書けない、 10月の最終週あたりから、ずっと調子が悪い。原因を突き止めようとするのも億劫で避けてきた。突き止められはしなくとも、考えるプロセスによって何らかのプラスになるであろうことは理解しているものの、ただ漫然と過ごすことしかできなかった。時折、浮かんでくる言葉はあれど、自身の存在を消したいとさえ思っている自分に、書き残すなどしてわざわざ痕跡を残す気力が起きるはずもなかっ
自分自身が存在していること、気持ち悪いな。自分の思想とか感情とか文章に現れているのを見ると、さらに気持ち悪い。後になって、記録に残して良かった、と思える日が来るであろうことは分かる。実際にそう思ったこともある。しかし、その日が来るまでの間は、その記録を削除してなかったことにしたいという思いと闘うことになる。 今だって、これまでの投稿をすべて消してしまいたい思いに駆られている。 時々、文章のみならず、自分の存在さえも、シャボン玉が消えるみたいに、突然跡形もなく消えてほしいと願
自分の文章が気持ち悪くなるかもしれないけど、頑張って書く。 今日は仕事でミスを犯したので、そのことばかり気になった。結局は丸く収まる感じで解決したのだが、午前中はほかの仕事がほとんど手につかず、半泣きになりながら単純作業をしていた。実は昨夜シャワーを浴びているときにそのミスに気づき、出社前からかなり心配していた。 他の人のミスもあり、100%自分に非があるわけではないのだが、だからと言って開き直れるわけでもない。事前に自分から確認を取っていたのにもかかわらず、最終チェックの
なりたい自分像を掲げてみても、漠然とした不安に駆られ、自分が変わったところでどうなのか?ただの自己満足じゃないのか?という疑念がぬぐい切れない。 まずは行動してみることが大事、行動を積み重ねればきっと変われる、今だって前進している、という励ましもあるが、頭では理解しようと努めるものの、やっぱり不安なものは不安。 でも、自分の頭の中だけで考えるよりは行動したほうがはるかに良いということは分かる。自己解決できたとしても、自分は納得するかもしれないが、その結論が必ずしも自分を良い方
親って、人間関係として特殊すぎないか 自分が嫌いだと、そんな自分に近づいてくれる人ですら信じられない 私を選んでくれる人なんてたかが知れている、なんて思う
三連休最終日はひたすら自分の時間を過ごした。ほとんどベッドの上で、スマホで興味のある記事を漁るように読み、自分の内面的なことに関する思考を延々と巡らせた。 予定を入れていたジムもキャンセルし、折角の休日がもったいないと思いながらも、自分にはこういう時間が必要だなと思った。土日はずっと外出していて、楽しかったが一人の時間がなく疲れたということもあった。 どういう自分になりたいのかという問いを、先週投げかけられた。 昨日考え続けていた中で、なんとなくつかみつつあるような感じ
自分が嫌いなのに、傷つきたくないのはどうしてなんだろう。 自分嫌いなら、どんどん自分を追い込んでストイックになればいいのに何故できない? 束の間の癒しに逃げてしまうのは何故 変わらなきゃと思うほど、辛いのは何故 変わるというのはどういうことなのか、何のために変わりたいのだろう 自分を好きになりたいわけじゃない。どっちでもいい。 でもナルシストだって、思われたくないだけ?自分好きっていうの、なんか恥ずかしい。 調子に乗ってる、って思われたくない。失敗した時に、それ見ろ、