口紅を買えなかった日のこと、の続き。
少し前に、「口紅を買えなかった日のこと」という日記を書いた。タイトルの通り、口紅を買おうとデパートのカウンターに立ち寄ったものの、買えずじまいで撤退したという出来事を書いたものである。
暗い内容であったので、大声でシェアするようなものではないと思い、ひっそりと公開した。Twitterでは一応ツイートしたものの、評判もふるわず、すぐに流されていった。翌日noteを開いたときに、わずかながらに「スキ」ボタンを押して下さる方がいたことが、私の心をなぐさめた。
それからまた数日経ってのことであるが、一人の友人からLINEでメッセージが届いた。私のTwitterやnoteを読んでいつも共感してくれている、というような内容と、最後に、「◯◯ちゃんの感じ方が私は好きです、あと私も似たように感じるタイプみたい」と書かれていた。
その言葉にとても、とても救われた。私のように、生活の闇の側面ばかり拾って生きているような存在にも、何か肯定的なものを見出してくれる人がいるなんて。
私は返信した。「口紅を買えなかったときの話には、続編があるんだよ。今度書いたら教えるね」と。
前置きが長くなってしまったけれど、その続編を記します。
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私はその日、再びデパートの化粧品売り場に向かっていた。先日買えなかった口紅を、今日こそは。という気持ちだった。
気になっていた、猫デザインをあしらったリップカラーの新商品が、ちょうど発売されたという情報をネットで見かけたこともあった。自分の好きな「猫」という付加価値があれば、迷うこともなく即決できるだろう。もし万が一、色が似合わなかったとしても、持っているだけでなんとなくハッピーになれそうだし、パッケージもかわいいし、後悔せずにいられる気がする。とにかく買おう、口紅を! そんな気持ちでいた。
今回は、その猫のリップカラーが売られているブランドの売り場をまっすぐに目指し、最短距離で売り場をかきわけ進んだ。
しかし、辿り着いた私の目に、無情にも飛び込んできたのは、「SOLD OUT」のシールが貼られた商品棚であった。猫リップ、全色、完売。
猫の動員力、侮るなかれ。
呆然と立ち尽くす私に、販売員の女性が声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
「この、猫のリップが欲しくて……」
「あぁ、それはもう完売です〜。申し訳ありません」
ばっちりとメイクをした、強い目元の、さばさばとした印象の女性だった。
クラスが一緒だったとしても、友達にはなれない(なってもらえない)タイプだ、と思った。
「そうなんですね……。えっと、もともと、口紅を……探していて……」
「そうなんですね。猫ちゃんのリップに近いお色が良いんですか?」
「いえ……そういう訳では……」
まずい。とにかく猫のだったら何でも良いから買おうという浅はかな考えでいたために、色のことは何も決めていない。そして、前回も書いたように、何色が自分には似合うのか、まったく分からないのだ。
「……え〜、色々ありますけど。ピンクとか、オレンジ系とか、しっかり色がつくタイプ、クリアでグロスっぽく使えるタイプとか」
販売員の言葉の調子に、わずかながら苛立ちが感じられた。まずい。私は焦った。キーンと耳鳴りがして、売り場のざわめきの音が遠のいていくように感じた。視界が揺らぐ。額に汗が浮かぶ。
ここで逃げ出したら前回と同じである。ひとつ息を吸って、絞り出した。
「ナチュラルな、感じが、、、いいです」
「そうですか。うん、そしたら、このあたりがおすすめです」
ここからは前回と同様だった。彼女はいくつかの口紅をピックアップしながら、手の甲にその色をくるくると塗り出してみせる。どうやらまずは手の甲で色を見せるのが、化粧品売り場での接客の作法のようだ。
「……えーっと、、」
決められない……という私の表情を察知したのか、お試しされますか?と彼女は売り場の隅にあるカウンターの席を指し示してくれた。それを待っていた。私は頷いて、お願いしますと伝えた。これで、前回よりは、一歩前進だ。
鏡の前に座り、ケープをかける。「変な客に当たってしまった」と、半ば面倒に思われているかもしれないなと思う。それでも、彼女はおすすめの口紅を、とても丁寧に、ブラシで唇に乗せてくれた。手元を安定させるために、小指だけをそっと私の顎あたりに置いて、手際よくブラシを動かしていく。彼女の慣れた手さばきを、心地よく感じている自分がいた。
ただ、顔を上げて鏡を見ると、口紅の色はあまり私の顔に馴染んでいるようには見えなかった。その淡いコーラルピンクは、血色の悪さに負けて、少しくすんで見えた。彼女もそれを感じているようだった。オレンジ系、少し濃いめのピンク、と、2〜3色試してもらったが、やはりダメだ。
「うーん……どうなんですかねぇ……」と、うなる私の顔を鏡越しに見ていた彼女が、こう言った。
「お客様、ファンデーションはされていますか?」
「いえ……」
「まず、お顔全体にお化粧をあまりされていないから、リップも浮いてしまうんだと思うんです」
ぎくり、とした。と同時に、そのことを指摘されて、救われたような気持ちになった。カミングアウトするならば、今しかないと思った。
「ファンデーション、持ってないんです……」
「え! そうなんですか!」
彼女の素直な驚きは、下手なフォローよりも、気持ちがよかった。
「お時間ありますか? よければ、下地とファンデ、つけてみましょう。きっとリップも違って見えてくると思うので」
彼女は、クリップで私の前髪を横に取り分けて止めると、下地のリキッドを手にとり、肌に伸ばしはじめた。私はおでこに汗をかいていたので、すみません、汗をかいていて……と謝った。口元の産毛をしばらく処理していなかったことや、眉もガタガタであることも謝りたかったが、やめておいた。
「うちのブランドは下地やファンデもとても人気なので。こちらはスキンケア効果もある下地ですが、SPFも45なので、日焼け止めとしてもしっかり使えます」
と、商品の説明をしながら、手際よく下地をなじませる。
「でも……ちゃんとお化粧しようって、何か思われたきっかけがあったんですか?」
彼女が、尋ねた。
その瞬間、自分でも意図せず、涙がぼろぼろとこぼれた。
ごめんなさい、変なこと聞いてしまいましたね、大丈夫、みんなには見えてませんから、そんな言葉をかけながら、彼女は私の目元にそっとティッシュをあてた。
悔しくて、悲しくて、心細くて。理由は、何だろう。どれだろう。何が辛くて涙が出たのだろう。
もう、分からなかった。分からないぐらいに、日常の些細な出来事が、不安が、後悔が、私の心に少しずつ降り積もって層を作り、それが今にも崩れようとしていたのだと気付いた。
恋人と別れたこと、仕事で将来が思い描けないこと、自分の理想の30歳とはかけ離れている自己への苛立ち……具体的に挙げようとすればいくつか箇条書きにできそうだったが、最終的にはそれらがもう溶け合って、一つのしこりになっている、"何だかもう限界っぽい"という状態なのかもしれなかった。
「大丈夫ですか、ごめんなさいね。あら、あらら……」
私の涙に同情する切ない表情と、励まそうという笑顔とを同時に抱えながら、彼女はそれ以上、私の私情へは踏み込まずに、メイクアップのポイントを明るいトーンで話しはじめた。
「こちらは夏に向けておすすめの、水をベースにしたひんやりする不思議なテクスチャーのファンデーションなんですよ。コラーゲンも入っているから、お肌が潤います」
それは、とても正しい判断だと思った。"何だかもう限界っぽい"を、説明できる気がしなかったし、涙を見せた時点で、私は心につかえていたものが流れて少し楽に息が出来るようになっていた。
「お客様は肌が白いから、一番明るいカラーにしますね」
下地を乗せ、ワントーン明るく、ツヤの出た肌になったところへ、手際よくスポンジでファンデーションを重ねていく。するすると肌色が広がり、密着する。少し目を閉じていて下さいねと言われ、言われた通りにまぶたを閉じた。最後にブラシで仕上げのパウダーをほんのりと顔全体になじませているのが分かった。
目を開け、鏡を見ると、知らない自分の顔がそこにあった。肌が、すっと透き通るように、光をまとっていた。ここ数年で失われた、少女らしさのようなものが、一瞬戻ったかのように感じた。顔がひとまわり小さく見えるような気もする。肌ひとつで、こんなにも変わるなんて。自分の目が、きらきらと光って見えた。
肌がしっかり作られると、他にも足りない部分が目立ってくる。眉、アイシャドー、チーク。彼女が、せっかくだからと、最終的にほぼフルメイクを施してくれた頃には、涙はすっかり乾いていた。最後にもう一度、塗り直した、少し濃いめのフューシャピンクの口紅は、先ほどとは違ってとても馴染んで見えた。
カウンターで、こんなにしっかりお化粧をしてもらえる日が、またいつ来るか分からないという気持ちもあって、私は、下地・ファンデーションと、口紅と、アイシャドーを下さい、と伝えた。
お会計をして、商品を包んでもらっているとき、また泣いてしまった。先ほどの涙とは、少し違っていた。これからきれいになりたいという気持ちと、その気持ちに寄り添ってくれた彼女の優しさに触れたからの涙だった。
よろよろとした足取りの私を、彼女が背中にそっと手をまわして、送り出す。
「また来てくださいね」
「はい。また来ます」
彼女のその言葉は、社交辞令だったかもしれない。それに、お店のスタッフと馴染みになる、というようなことが苦手な自分は、かえってあのお店を避けてしまって、もう二度と足を運ばないかもしれない。それでも、その瞬間の、「また来ます」には、私の精一杯の気持ちを込めたつもりだ。
あのとき買ったファンデーションと口紅は、それからまだ数回しか使っていない。結局、自分で家で塗ってみると、カウンターでぱっと肌が輝いて見えたように、上手くは魔法がかからないのだった。そんな気は、していたけれど。でも、きれいでいること、それによって自分を少しでも、好きになること、それがどれだけ大切であったかを思い出せたことだけで、あの日の買い物は無駄ではなかったと思う。
忙しさを言い訳に、手入れを怠っていたから、いつの間にか私は私がとても嫌いになっていた。忙しいからメイクはしない。忙しいからおしゃれもしない。忙しいから、イライラしてもしかたない。そんなふうにして、自分のコンプレックスを野放しにしていた。
自分を好きになるために、具体的な努力をすること。自分の嫌いなところを、少しずつ減らすこと。それを続けることが、多分、今の自分にとって大切なのだろうと思う。
自分のなかでイメージしていた、「口紅」の似合う大人の女性ーーにはまだ程遠いけれど。
「30歳」という年齢から、逃げようとしていた自分からは、少しだけ前進できたかもしれない。
ようやく、30代、小さなスタートを切れそうだ。