特別な、何かになりたかった
小学校2年生だったと思う。
文集に載せるから、将来の夢を書きなさいと言われ、カードが配られた。
私は、机の上に乗った真っ白な紙を見つめてしばらく悩んでから、
こっそりと「魔女になりたい」と書いた。
「ケーキ屋さんになりたい」「サッカー選手になりたい」「アナウンサーになりたい」クラスメートたちの朗らかな夢に挟まれて、私の「魔女になりたい」という一行も、文集に印刷された。口にしてはいけない呪文を言葉にしてしまったかのような、背徳感と、高揚感があった。
そのときは、まだ魔法を信じていた。自分に特別な力が与えられているはずだと、密かに願っていた。
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それから20年以上が経って、当たり前だけれど、私は魔女にはなれなかった。魔法は一度も使えたことがないし、空も飛べたためしが無い。猫の言葉も分からないまま、すっかり大人になってしまった。
魔女にならなかった私は、何をしているかというと、大学卒業後にいくつかの仕事を経て、現在はイラストレーターという仕事をしている。
でも、まだ何者にもなれていない、といったほうが正しいような気もする。「何者かになる」ということを、ずっと延期しつづけている、と表現するのが適切かもしれない。
「私は○○です」と、職業を名乗るのは、責任を伴う。イラストレーターであるならば、イラストレーターとしてのプロフェッショナルな技量が必要であるし、いつでも注文に応えられるように、制作環境やコンディションを整え、スタンバイしておかなくてはいけない。
それが自分にしっかりできているかというと、正直胸を張れない。
そもそも、イラストレーターの仕事は不安定だということで、デザインの仕事を掛け持ちしている。実際、週の半分はデザイナーとして生き、残りの半分をイラストレーターとして過ごしているから、どちらも半人前だという意識が抜けない。
毎日美味しいパンを焼き続けているパン屋さんだとか、毎日髪を切り続けている美容師さんみたいに、何かに100%の力をコミットしている人たちの姿を見ると、あぁプロフェッショナルだなぁと、思う。
自分がそうかと言われると、自信がないのだ。
今は、デザイン・イラスト、どちらにも振り切る勇気がなく、半々のペルソナを抱えて、毎日振ってくる案件を打ち返すのに必死な振りをして、根幹にある空虚を騙しながら生きている。
そんなズルい、保険をかけたような生き方を、しばらく続けてきて、少しずつ積み上った疑問や不安が、ある日、高い高い壁のように目の前にそびえていることに気付いた。私は、その壁の作る大きな影のなかにすっかり飲み込まれていた。
"私って何者なんだ。
何のために生きてるんだろか。"
ともすれば中二感のあるこの疑問が、またしても、むくむくと頭をもたげていた。そして、今回は、いよいよ現実的にこの問いに向き合わざるを得ない状況にあった。
端から見れば、小さいころから好きだったイラストを仕事にして、夢を叶えつつあるようにも見える現在のキャリアパスだけれど、ぽっかりと穴が開いた様な空虚感があるのはなぜなのだろう。
真夜中に、ダイニングテーブルに座りながら、
今迄の人生だとか、自分の性格だとかを、ぐるりと思い返していた。
そして、あぁ、これか、と気付いたことがあった。
私は、ずっと、「特別」になりたかったのだ、と。
あのとき書いた、「魔女になりたい」という言葉の裏に隠されていた深層心理。それは、今になって考えてみると、「特別になりたい」という願いだったのではと思う。
魔女でなくてもいい。例えば画家でも、作家でもいいのだけれど、何か専門性を持っていて、生まれ持った才能を生かしていて、まわりから「すごいね」と言われて、キラリと光るような、そんな唯一無二のアイデンティティを勝ち取りたかったのだ。
そして、今、その「特別」に、自分の力ではどうやら達することが難しいという現実を突きつけられて、壁に直面している閉塞感があるのだ、と。
才能も、努力も、ちょっと足りないということを、痛感する日々。
来るはずの「ブレイクスルー」が、いつまで待っても来ない人生。
サラリーマンの期間を経てイラストやデザインを始めたから。スタートが遅かったから。まだまだ修行期間だから、と、色々な理由で飾って、いつまでも半人前でいる自分を甘やかしてきた。「まだまだ、こんなもんじゃない」と、結果が出る時期を先延ばしにしてきた。
だがどうだろうか、30歳を過ぎて思う。結果はとうに出ているのではないか?と。
描いても、描いても、上手くなっているのかどうか分からない。どんどん新しい、若いイラストレーターさんたちが、活躍していく。売れっ子になっていくのを、私は、指をくわえて見ているだけ。
TVに出てくるアーティストも、活躍しているスポーツ選手も、もう年下のことが大半になってきた。みんなその年齢で、「特別な何か」に達しているのに……
猫が、膝の上に乗ってくる。「ニャア」と鳴く。キキになれなかった私は、ただ猫をなでる。
さぁ。特別ではない自分を、どうやってこれから生きていこうか。
以前に読んだ「そのままの自分を愛しなさい」という自己啓発本の一文が脳裏に浮かんだ。
はぁ。それが出来たら簡単だぜ。
頬杖をつく。
結婚できればなぁ。逃げたい、結婚して逃げたい。
何百、何千回と辿り着くこの逃げ道へ、またすがろうとして、そんな自分に嫌気がさした。
結婚すれば、「主婦」であると名乗ることができる。
子どもができれば、「母」という確固たる役割が与えられる。
あなたは何者ですか?という問いに、「独身の女です」という空虚な回答をしなくて済む。
うらやましい。妻や母になって、別のステージへ上がって行く友人たちが。
私はというと、未だに何者にもなれずに、最初のダンジョンで一人で闘って、さまよい続けているのに。
結婚できたからといって、ゲームクリアということでは決して無く、更なる課題が突きつけられるのだと頭では分かっていても。それでも、うらやましい。
脳みそが圧をかけられたようにきしんだ。嫌だ、このまま、何者にもなれないままは嫌だ。
「特別」になれない自分を、妥協しながら、生きていくのは嫌だ。
嫌ならば、走り続けるしかない。進んでいないように思えても、ときに後退しているように感じられても、下り方向のエスカレーターを全力で駆け上がるような息切れを感じても。ずっと一人で闘い続けることになるのだとしても。走るしかない。
あと何年かしたら、「あのときは肩に力、入ってたなぁ」なんて、笑える日が来ているんだろうか。「みんなが、もともと、特別なオンリーワンなんだ」的なハッピーマインドが得られている日が来るんだろうか。
今は到底、そんなふうに思えそうにない。だから、もう少し、がむしゃらに走るしかない。
「特別ではない自分」を受け入れて生きるのか、それとも「特別」であることを証明できるまでやり続けるのか。道はその二つだけれど、立ち止まっていては、どちらの答えも手に入れられないことだけは確かなのだから。