国家と人権、その向こう側
以下は2014年に書いた短いメモ書きだが、いま香港で起こってい事態から思い返したのでnoteに再録しておきたい。
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現在私たちが世界で目撃しているのは、国家と呼ばれる政治権力によって「人権」が無視され、つぎつぎと破壊されている状況である。
「人権」の破壊とは、つまるところ政治権力が人びとに対して剥き出しの絶対暴力として姿を現し、彼らにとって必要と判断した場合には、実際に容赦なく人びとを殺戮することに他ならない。あたかも世界が、殺戮する者と、殺戮される者に二分されているかのように。
このような状況で、私たちが今その前に立たされている問いとは、「人権を守れと叫び、旗を立ててたたかうことで果たして権力を制止し、さらには打ち倒すことが可能なのか?」ということである。
「大東亜戦争」の敗戦直前に策定された、国民すべてを戦闘に動員する「本土決戦戦略」は(結局は連合軍に無条件降伏したため未遂に終わったが、沖縄戦では実行された)、その大前提として「国家は国民に対し『国家のために全員死ね』と命令する權利をもつ」ということが観念されていた。
だが占領軍であったアメリカの手で作成された戦後憲法は、国家が危機に直面すればそう命令する可能性を持つ存在であることを自覚した上で、このような国家の権利を否定し、国家が戦争へ暴走することを防ぐ仕組みを権力分立をはじめ何重にも組み立てている。
この憲法は、国家が国民に死ねという権利を持たないことを、国家の主権が国民にあることを(国民主権)から導いている。国民がすすんで自死するなどとはありえないという前提に立つものだ。だがもし「国家のために死ぬべきだ」と考える者たちが選挙という形式を踏んで国会の多数を占め、従って政府を占領したら?
現憲法は、たとえ形式上、民主主義的な手続き(選挙)の結果そういう事態が生まれても、占領者たちが国民を構成する「普遍的」(だとされる)個人の自由と權利を奪うことはできないと宣言している。立憲主義とはこのことをさす。にもかかわらず、占領者がこの自由と権利を奪おうとすれば?この試みは、憲法が指定する手続きで選ばれた者がみずから憲法を否定するものであり、クーデターと呼ぶべきものである。
しかしこの問いは馬鹿げているだろう。なぜなら、そもそも「国家のために死すべきだ」と考える占領者たちは、背後に絶対暴力をもって権力を奪取したのであり、不可避的にそう振る舞わざるをえない者たちだからだ。
これに抵抗し、「憲法擁護」を大義として自由と権利を守ろうとすれば、占領者たちからただちに「反政府分子」「過激派」「テロリスト」などのレッテルをはられ、弾圧されるだろう。ここでは、占領者たちの「国家の大義」と「憲法の大義」が衝突している。
この限りで抵抗する者は、占領者たちによって「国民」としての属性を奪われることになるだろう。そして「やつらはもはや国民じゃなく、テロリストであり、何をしても許される存在」だとみなされる。つまり抵抗する者は法の外部へと追いやられる。法の外部とは、国家が死を命ずる絶対暴力として赤裸々に現前するところである。
だとすれば「人権」は、いったん占領者たちが「国家が危機に陥っている」と判断する限り、いつでも破壊されうるのである。もちろん「憲法擁護」の大義の下で人権を守るたたかいは必要だし、不可欠なものだ。しかし同時に人権が国家を前提にし、国民に与えられたもの(今なお外国人の人権制限は国家に許されるとするのが国際法である)であり、国家と民衆の力関係の微妙なバランスの上にたつ脆いものであることも自覚しておくべきだろう。
では法の外部へと追放されたらジ・エンドになるのか。答えは否である。
なぜなら、その外部こそ、持続する抵抗の根拠地となるだろうからである。
この地、暴力と死が現前するところで、抵抗し排除された者は、国家以前、つまり個人が「国民」としての属性をまとう前の、いわば「剥き出しの生」として生きざるをえない。しかし、だからこそすべてを奪われた人の群れの中で、その仲間とともに血を流しながら法外の法(書かれざる憲法としての正義)を発見し、希望を持つことになるからだ。この正義こそ、憲法制定権力者と命名されてきた民衆がその回復をめざすものであり、希望に他ならない。そして外部は内部に反転することになる。