村瀬秀信『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』

 1955年の阪神タイガースを率いて、わずか33試合で解任された謎の監督、岸一郎。オーナーに独自のチーム再建論を投書して就任が決まったという、にわかに信じがたい逸話で知られる謎の老人監督の実情を追ったノンフィクション。
 ここ数年、プロ野球の試合はまともに見ておらず、ネットで成績を追うくらいなのだが、中村勝広~第一次岡田政権までは熱心にタイガースを追っかけており、プロ野球関連の雑誌やら書籍などもそれなりに読んでいたのだが、岸一郎については「なんかすぐクビになった監督がいた」くらいのぼんやりとした認識しかなかった。帯にある「プロ野球未経験の老人…」という惹句がやはり強烈で、面白そうな題材に目をつけたものだ。
 しかし、ふたをあけてみれば、戦前の学生野球で、早稲田の大エースとして活躍し、卒業後は満州に渡り当地の満鉄野球部のエースとして、内地の強豪を迎えうっていた大人物とわかる。当時の学生野球のエースとなれば、球界の頂点にいたと言っても過言ではないだろうし、タイガース監督就任の時代には、無名というよりは忘れられた野球人であった。
 監督就任の経緯についても、岸自身は球界復帰を目指し、以前からタイガースのほかの球団にも売り込みをかけていたとある。そこに、審判の判定を巡り没収試合になった事件の責任をとり、前監督松木謙治郎が急遽退任したタイミングが重なり、さらには監督人事を巡る球団側と本社側の主導権争いにも乗じたというめぐり合わせもあったようだ。鉄道会社の人脈から、満鉄出身の岸を運輸省など鉄道関係者から押し込まれたという説も有力そうだが、やはり当時のオーナーが手紙に弱い男だったという話も捨てがたい。
 いずれにせよ、自分が帯文から勝手にイメージを膨らませ過ぎたのだが、酒場や球場で「儂が監督だったら~」と一席ぶっている虎党の老人が、ワンマンオーナーの暴走で監督に取り上げた―というのは流石にファンタジーすぎたことが早々に明かされてしまい、若干拍子抜けであった。野球経験なしってことはまあそりゃないでしょうけど、ノンプロ出身どころか、早稲田のエースピッチャーだったのは「なーんだ」という感じ。早稲田OBのあの広岡達朗は「岸一郎さん…もちろん知ってますよ」と話し、あの広岡達朗が早稲田の大先輩岸については遠慮深く語っているのである。ちなみに本書の広岡へのインタビュー部分はまさに広岡達朗という感じで最高。(最高すぎてさすがにちょっと盛ってるんじゃないかとも思う)
 岸一郎の「謎の監督」としてのインパクトが薄まり、本書がどう展開していくかというと、岸が指揮をとった1955年のシーズンから、1959年、ミスタータイガース藤村富美男が球団を追われるまでの経過を追い、タイガースの球団論としての側面が強まっていく。選手主導で岸を退任に追い込んでしまったことで、「”選手が監督に勝ってしまった”実績を作ってしまった」とスポニチの内田記者が語っているが、この事件がその後のタイガースの球団体質を決定づけたというのは、なかなか痛切である。「お家騒動」を悪しき伝統とした、歴史の長さに対して極めて少ない優勝回数、本社とフロント、現場の対立という、暗黒時代のタイガースファンをしていた自分にも身に染みている、その後の迷走ぶりを予見させ、象徴する数年間であったことは間違いない。
 ここまでで大体本書の半分くらい。以降は選手時代の岸の活躍と、監督退任し郷里に帰った岸の足取りを追う流れとなる。選手時代の活躍はなるほど華やかだが、監督時代以上に資料に乏しいわりに、著者の観てきたような描きぶりが妙に強まった印象でなんとも。故郷福井での岸の足取りやルーツについては、なかなか際どい話も多くなるが、菩提寺で岸の没年を突き止める場面や存命中にあったタイガース福井遠征での小山正明との一幕などは中々感動的であった。惜しむらくは岸が生前付けていたという遺品の日記が、著者の取材2年前に処分されてしまっていたこと。ただまあ、伺いしれるところからすれば、いろいろご家族の心をかき乱す内容もあっただろうし、本書にとってもそれでよかったように思う。

 これで終わっても十分面白いのだが、そう、偶然にも2023年のシーズン、阪神タイガースは日本一になったのである。岸一郎がタイガースのお家騒動体質のルーツであり、今もタイガースはまた優勝から長く見放されているという結末ではあんまりだ、と野球の神様が憐れんでくれたのかもしれない。

 当然このタイミングで刊行されるのだから、そこへのフォローは重要なのだが、あとがきで語られる、阪急の介入が阪神の体質改善を進めたのだ、という理屈はちょっと笑ってしまう。しかし岸さんご一族の日本一の瞬間の感動的なエピソードも加わり、最高のエンディングを迎え、素晴らしい一冊になったと思う。

 …さらに個人的な体験を付け加えると、ちょうど自分が本書を読み切ったのが、先月10月17日で、前々日には藤川球児が阪神タイガースの新監督の就任会見を行っていた頃となる。で、本書の最後の最後は、川藤幸三に連れられて甲子園歴史館を訪れた藤川が歴代監督パネルの岸一郎に興味を示すところで終わるのである。まさに最後の一撃。偶然といえば偶然だが、あまりに出来すぎていて妙に感動してしまった。
 ただこれで藤川阪神が大コケしたら締まらないので、来シーズンは是非頑張ってもらいたい。応援します。


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