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虚構と性

「たとえ現実がそうでなくても、目的論的に生きるのが人間の性だ」

東京大学駒場祭2023, 國分功一郎対談会「『暇と退屈の倫理学』を改めて問う」, 質疑応答セッションにおける母性ノクターンの発言の一部を抜粋

人生のありとあらゆる場面で人は、「目的」に対峙させられる。時間軸上において少し先のことなら「目標」と換言してもいいし、さらに未来の事柄に関しては「夢」と言っても差し支えない。水を飲もうと思って水を飲む。アクセルを踏もうと思って踏む。歌おうと思って歌う。未来のどこかの任意地点/領域を設定し、それが引き金となってありとあらゆる行為が駆動されているという了解を「目的論」と呼ぶ。しかし実際、現実は目的論的に運行しているのか。

目的論が妥当だとされる背景には、人間の行為が自らの「意志」を起点として駆動されているという暗黙の了解がある。「こう思うから、こう動く」。自由意志が身体活動を統率し、かつ牽引するというこの図式は本当に正しいのか。ここに何の懐疑も挟まない人が、あまりにも多い。身体から独立した精神活動にやたら神聖を付与したがる人間の性が様々な場所に垣間見える。精神は他の何よりも優位な存在で、万物の起点であると考えるから、あらゆる物事の原因、そして責任が誰かの意志に帰される。鬱病は甘えであり、人生がうまくいかないのは自己責任であるという論調が世間では絶えない。挙句の果てには自殺が本人の意志によるものと言われる始末だ。雷雨や津波などの天災を神の怒りだと考えることに対しては「宗教だ」と一蹴するのに、人間の話になると途端に「意志」なる精神活動が行為源として据えられる。すべては自然現象でしかないのに、高度な精神活動を営む「人間」という自らが所属する地位が祭り挙げられる。言わせてみれば、「意志教」だ。
意志の強靭性がすべてを解決するという「根性論」なるものは時代とともに廃れていったが、根性論を嫌悪する人であっても意志が行為の原因であると考えて疑わない人は多い。表面上は根性論を嫌いながらも、根性論の根底にある「意志が行為を駆動する」というロジックを認めているから、結局のところ両者は共犯である。そのような人が根性論に寝返ったり、自己責任性を持ち出して他者を批難し始めるのも時間の問題だ。どこか歯切れの悪い苦しみは、自分自身が物事の根底に措定している図式が原因ではないのか。我々はまず、誰もが懐疑を挟まなくなって久しい暗黙の了解を解体するところから出発しなければならない。


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人間の精神活動は脳内の物理/化学的プロセスが引き起こす、あるいはそれと同一の現象であり、「意識」はそれら諸プロセスが統合された状態であるという見解が自然科学では一般的だ。つまり意識活動に内包される「意志」は事後的な構築物であり、行為の原因ではない。
1980年代に行われた生理学者ベンジャミン・リベットの実験¹を参照しよう。被験者を光の点が回転する円盤の前に座らせ、(a)好きなタイミングで手を挙げるように指示し、手が上がったタイミングで光の点がどの位置にあったかを記録する。(b)被験者の頭部には手首(筋肉)を動かす際に脳から発生する電位を測定することのできる電極が接続されており、(c)最後に被験者は「いつ手を挙げようと思ったか」という主観的タイミングを報告する(そのタイミングは円盤上の光の位置で把握する)。つまりこの実験では、(a)実際に手が上がった時点、(b)手が上がるために脳内の神経細胞が発火(準備電位が発生)する時点、(c)被験者が「今手を挙げよう」と思った時点の計3時点が測定されることになる。
重要なのは、この3時点が起こる順序だ。結果、実際に被験者の手が上がる約500ミリ秒(0.5秒)前には既に、脳の神経細胞から手が上がるための信号が発せられており、約200ミリ秒(0.2秒)前に手を挙げようとする意志(意識)が形成されていることが判明した。簡単に順序を示す。

⑴脳内で準備電位が流れる。
⑵手を挙げようとする意識が形成される。
⑶実際に手が上がる。

つまり、人間が何かを為そうとする前に、既にその行為を為すことは決定されていることがこの実験によって示された。手を挙げようとする意志が形成される時点は実際に手が上がる時点より時系列的には前だが、時系列的に前に起こっている現象だからと言って、行為の原因になるとは限らない。脳内に発生した準備電位によって手が上がるプロセスと準備電位を受けて意志が形成されるプロセスは並列的であり、意志が実際の行為に干渉しているわけではない。「こう思うから、こう動く」のではない。「こう動くから、こう思う」のだ。水を飲もうと意識した300ミリ秒前、(500ミリ秒-200ミリ秒)、そして口元でコップを傾けたその瞬間の500ミリ秒前には既に水を飲むことは確定している。何かを為そうという目的、そしてその目的に到達するために要請される「意志」は、実際の行為に先立つ物理/化学的プロセスの事後的構築物であり、虚構だ。²


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意志が形成されるプロセスを理解することは、「原因」と「理由」の両概念を区別することにも繋がる。両概念の定義を明確にする前に、それぞれが実際にどのような場面で用いられているかを考えよう。
一般的に「原因」は、事象の結果がそれを捉える者にとって好ましくない状況(事故、事件、天災等)での使用頻度が高い。一方「理由」は、結果の好ましさに関わらず使用される(人を好きになった理由、誰かを殺した理由等)。ところで、事象の結果が好ましい状況であった際には、「原因」という言葉が使われないのは不思議だ。
例えば結婚式の場面で新郎新婦に対し、互いを好きになった「原因」を尋ねる友人や司会者はいない。質問者が期待している回答は例えば、「彼女の前ではありのままの自分でいることができる。苦しいとき、いつも傍に居てくれた。一生かけて守りたい存在だ。一生を共に歩んでいきたい存在だ」という「理由」だろう。
しかし、「原因」はどうか。人間が意志を形成する300ミリ秒前には、既にこれから起こる事象が確定していることをリベットの実験は示した。「理由」が目的を持った意志の内容を物語っているとしたら、「原因」はその300ミリ秒前に発生した準備電位を含む、物理/化学的プロセスを指す。上記の場面では、新婦に恋をした時の新郎の脳内における物理/化学的プロセスが恋の「原因」に当たる。日常生活で「原因」が頻繁に参照されずに「理由」を問う場面が多いのは、原因という物理/化学的プロセスを人間がその場で正しく認識することがほぼ不可能だからだ。多くの場合は、行為の準備電位から並列的に発生した意志という虚構が参照される。


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なぜ、私はここまで人間の虚構性を追求し続けるのか。どうして、ここまで虚構という概念に囚われるのか。思えば、自分の実存の喜びや苦しみが虚構によって駆動されてきたことを人よりも強く意識してきた人生だった。どんな場所でも「虚構」という文字を見ると、自分のすべての神経がその二文字に注がれる感覚がする。
私論は独我論や唯心論といった世界の根源を主観性に根差すアプローチに対して批判的であり、客観性が担保された科学主義や自然主義の立場を採ることが多い。しかし、主観やクオリアといった脳が紡ぎ出す虚構に助けられてきたのは、何よりも私自身だった。幼少期から妄想や空想が絶えず、自分の創り出した世界観に満足することが多かった。自分でこんなことを言うのはおこがましいが、その独自性が私の人間的魅力ををどこか形作っているのではないかとも思う。他者に対して自分という人間がどのように映っているのかは分からない。だが、そんな自分に面白さやかけがえなさを見出してくれた人たちとの関わりがさらに世界を彩った。現実世界に規定されずに無限に広がる自分の主観性を大切にすることが、苦悩や逆境を乗り越える術だった。
しかし反面、この気質のせいで多くの人を傷つけ、面倒事に巻き込んだ。トラウマを与えたこともあるかもしれない。一生消えない傷を誰かに刻み込んだかもしれない。ずっと、他者に対して虚構性を振り回した罪の意識を抱えて十字架を背負い続けてきた人生でもあった。そのせいかいつしか、虚構を解体して現実を見つめることに異常に執着するようになった。同じ過ちを二度と繰り返さないという反省が、人間の意志や意識といった精神活動、そして愛という人間にとって本来豊かで尊い感情までをも虚構と捉えて解体していく過剰な正義規範にいつしか変わっていった。もう誰も傷つけたくない。もう誰も争わないでくれ。こんな感情も自分が傷つかないための防衛であったか。偽善であったか。虚構うそであったか。虚構という概念が暴走する。


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『少女地獄』という小説が存在する。著者は、「三大奇書」と称される書物群の中の一つ、『ドグラ・マグラ』で有名な夢野久作(1889-1939)であり、本作は四部構成の短編集だ。その冒頭の作品「なんでもない」を引きたい。

ある日、医師の臼杵の元に、一人の女性が自殺したという通知が届く。その女性とは以前臼杵の下で看護婦として働いていた「姫草ユリ子」という人物であった。しかし臼杵の心境は複雑だ。というのも、姫草ユリ子は臼杵の元に居る間、天性とも呼べる愛嬌や看護の腕を発揮して病院の繁盛を大いに底上げした存在であった反面、身分詐称や経歴詐称を行うなど、常に虚構を紡ぎ続けて悶着の火種を多数作っていた人物でもあったからだ。虚構うそを吐き続ける彼女の気質は留まることを知らず、名前は同じだが人格は架空の他院の医師(白鷹)の存在を臼杵に吹聴するなど、段々とエスカレートを極めていく。そしてある時から、暴走した彼女の虚構体系に綻びが見え始めることが増えた。臼杵は姫草の言葉を信じて疑わないが、周囲の人間は明らかに懐疑の目を向け始める。
そんな中、姫草の計らいが頓挫し、臼杵と実在する白鷹本人が出会ってしまうという事案が発生する。臼杵は姫草が紡いできた言葉の全てが虚構うそであると確信し、周囲の者に相談を持ち掛けたところ、姫草は共産主義者(アカ)なのではないかという疑惑が浮上し、警察に突き出されてしまう。その先で暴かれたのは、共産主義などとは全く無関係な、姫草ユリ子が紡いできた虚構の巨大性であった。「兄がいる」といって兄からの差し入れを臼杵に届けたこともあったが実は一人っ子で兄は存在しなかった。また、推定年齢は20代半ば~後半であるが年齢を19歳であると偽り、本名すらも「姫草ユリ子」ではなく「堀ユミ子」であった。一つの嘘を維持するために他の嘘をつき、その嘘を守るためにさらに嘘を重ね、その繰り返しが「姫草ユリ子」という巨大な虚構体系を創り上げていた。

なぜ堀ユミ子は虚構を紡ぎ続ける必要があったのか。彼女の現実の姿を知った臼杵の関心はそこに集中する。堀ユミ子の「つまらない性癖」、つまり嘘を付きたがる性格ないし気質が故なのか。しかし臼杵は、取調室で話す姫草の目に「精神異常者の昂奮時によく見受けるもの」を発見するや否や、とある可能性を閃くことになる。

そうした彼女の眼の光を見守っているうちに、鈍感な私にも一切のウラオモテが次第次第に夜の明けるように首肯されて来た。彼女の不思議な脳髄の作用によって描きあらわされて来た今日までの複雑混沌を極めた出来事のドン底から、実に平凡な、簡単明瞭な真実が、見え透いて来たのであった。

夢野久作「なんでもない」『少女地獄』, 角川文庫, 1976年, 84頁. 強調は母性ノクターン

臼杵は姫草と一緒に寝泊まりしていた看護婦を至急呼び寄せ、堀ユミ子に関する秘密を問いただす。

「ハイ。姫草さんの月経来潮は正確で御座いました。毎月大抵、月の初めの四日か五日頃です。わたくし、いつも洗濯をさせられますので、よく存しております」

ibid, 85.

この決定的事実を把握した臼杵はすぐに特高課(警察)に出向き、報告を行う。堀ユミ子が特に虚構を堅牢に形成する傾向があるのは毎月決まった時期であった。パズルのピースが揃う。

「やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子という女は、卵巣性か、月経性かどちらかはわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱性から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起こして、事実無根の事を喋舌りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。僕の日記を引っくり返してみれば一目瞭然です」

ibid, 85.

リベットの実験と、理由と原因の概念的区別を思い出そう。
堀ユミ子が嘘をつき続ける原因は、貧しい家系である事実を隠蔽して自分の気品を守りたいからでも、周囲から認められて自身の承認欲求を満たしたいからでもなかった。仮に堀ユミ子本人がそのような感情を抱いていたとしても、それは脳内の準備電位の発生から事後的に構築される「意志」、つまり「理由」という虚構であって「原因」ではない。堀ユミ子が嘘をつく原因は、排卵前に多く分泌されるエストロゲン(卵胞ホルモン)と排卵後に多く分泌されるプロゲステロン(黄体ホルモン)、両者のバランスが逆転することによって生じる自律神経の乱れが引き起こすPMS(月経前症候群)であり、そのような身体の状況下において脳内で発動した準備電位であるとも言える。臼杵は医者だ。生理学的/医学的観点、つまり自然科学的観点から意識活動ではない身体の物理/化学的プロセスである「原因」を突き止めた。³

著者の夢野久作がどのような意図を以てして本作を執筆したかどうかは、私の知る限りではない。しかし、私が「なんでもない」を高く評価し、かつ個人的に傑作であると考えている所以は、「人間の精神活動(意識)のみに焦点を当てて人物の行為を説明するのではなく、意志や理由という精神活動を行為源に設定せずに事象のメカニズムを記述するという虚構を解体する態度」だ。
私は長らく、この作品のタイトルがなぜ「なんでもない」なのか皆目見当がつかなかった。以前同じくこの作品を好む友人に、なぜこの物語のタイトルが「なんでもない」なのか、彼女なりの解釈を尋ねたことがある。その際の解答が的を得ていて、私の解釈は一気に完成した。正確な内容は思い出せないが、朧げな記憶を頼りにして友人の発言から、引く。

「なんかわたしあれはさ、一種の皮肉とかコメディーみたいなもんだと思うんだよね。 周囲の人たちはユリ子のことに関して色々考察したりするけどさ、結局はユリ子のバイオリズムの問題でした、みたいな」

友人S.

人間は生きていると様々な喜びや苦悩を経験するが、そのすべての原因が「なんでもない」単なる物理/化学的プロセスでしかないとしたら、どうか。リベットの実験が示した事実を目の前にした我々人間にとって、生きるとは、感じるとはどういうことか。人間は必ず、自らの主観を、意識という虚構を生きるさがに従っている。

「もう一つ思ったのは、女性としての見方かな。大人になった今だからこそ月経前症候群がきたら「生理前だから」って言えるけど、思春期は「なんでもない」って返答するしかなかったりすると思うんだよね。一種の強がりみたいなものじゃないのかな。男性には分からないことだと思うけど、PMSってかなり辛いから。ユリ子は嘘を付くことが日常化してて、もう自分でも無意識なのかもしれない」

友人S. 強調は母性ノクターン


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小生等は彼女を爪の垢ほども憎んでおりません。何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない砂漠のような……カサカサに干乾びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無情の天国と信じて、生命がけで抱きしめて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し憐み語り合っております。[……] 彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。

ibid,96. 臼杵の書簡より

人間の意識が現実世界を恣意的に捉える虚構でしかないとしたら、我々に堀ユミ子の素行を嗤う資格はあるのか。果てしない妄想や空想に自らの実存を委ねる人間を咎める時、我々は自らのさがに目を瞑ってはいないか。目的という心的表象が行為を駆動するのではないとしても、人間として生き、感じる上で虚構と手を切ることはできない。その意味で我々は皆、姫草ユリ子と相違無いのではないのか。どんなに自然の因果律が明らかになっても、人間は喜び、悲しみ、苦悩し、生きる。虚構と現実の間を無限に運行するゴンドラに乗せられ、人はどこへ行く。何を見る。何を感じる。


1. ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』, 岩波現代文庫, 当該実験の説明箇所は167-193.
2. このような結論を前にすると、次のような反応が考えられる。「人間は脳 の操り人形なのか」。正確な物言いではない。「どこか人格的なものを持った存在が対象を操作する」という表現に、いまだに現象を擬人法的に把握したがる人間の性が顕れている。脳が人間を操っているのではなく、神がそのように世界を創造したのでもなく、そのような自然現象が起こっているだけであるという了解が正しい。
3. ここでは便宜のために行為の原因を脳の準備電位に措定しているが、事象の原因をただ一つに定めようとする試みは頓挫する。準備電位という脳の物理的現象をマクロとミクロ、それぞれの方向スケールに分けて考えよう。ミクロに見れば、準備電位という脳内に駆け巡る信号は複雑なネットワークを形成する複数の・・・ニューロン細胞の発火現象である。マクロに見れば、準備電位が発生するための脳内の条件、脳がそのように機能するための身体のコンディション、身体がそのようなコンディションになるための外界の状況(気温、湿度等)など、その状態がその瞬間に成立するための条件も必然的に要請されるため、それらは最初に言及した物理的状態と同等の「原因」と言える。このように水平的な原因の存在を考えていくと、ある物理的状態が成立するための外界の物理的条件、その物理的条件が成立するための別の物理的条件が要請され、最終的には宇宙の全物質が任意の事象の原因であるという結論が導かれるように思える。しかし、宇宙の全物質が同時に連動可能か否かに関して筆者の知識は定かではないため、本論をそのように帰結させることは今回は避けたい。

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