【小説】Z(ツェット)氏のけしき【66枚】
一
坂の上にベンガラ色をした三角屋根の家があって、庭に植えた桃や梨の木が、黄色い物干台の高さまで伸びている。
日曜日、Z氏が物干台に立って洗濯物を干していた。
長四畳くらいの物干台には物干し竿が一本渡してある。
空は澄んだ藍色をして一つの綿雲が空を渡っている。
玄関に植えた桂に実のつく頃になったものの、日傘をさした人の坂の下を行く姿が見える。
Z氏は籠から毛布を取り出し、物干台で背伸びをして拡げて、物干し竿に掛けた。
Z氏は居間に入った。居間のサイドボードには、硝子の戸を透かしてグラスが立ち並んでいる。下の棚の端にはメープルシロップの瓶が納まっている。
Z氏はブランデーグラスとメープルシロップの瓶を取り出して、テーブルに置くと、ふかふかのソファーに腰を下ろした。
瓶から琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
親指の幅程も注いで、高い鼻をグラスに寄せ、口に含み、舌の上で転がしてから咽の奥へとやった。
居間の鳩時計が一時を告げた。
まだ日が高いから、Z氏は枕を持って出た。頭の上に高く差し上げたまま物干台に佇んだ。
物干台いっぱいに照り渡る日を浴びて、Z氏の枕は膨らむ。
二
Z氏が洗濯機から昆布の束の様になった洗濯物を爪先立ちになって、籠に移した。
籠を両手で掲げて梯子段を登る。物干台に出る。薄い雲が重って、坂の下の町は霧の海に漂っている。
再び洗濯室に入り、洗濯物を取る。
丸まったズボン下を取れば垂れ下がる。ズボン下の裾が鉤型に固まって、そこに靴下が掛かっている。Z氏は両手で引き上げながら背伸びをした。ズボン下は靴下を引っかけたまま洗濯機の口を越えた。
部屋に戻って、風の梢を揺らす音が高くなってきた。
Z氏は洗濯物を思いつつ、タオルで顔を拭っていた。汗をかかずとも、一つ動いたあとは何かが肌に積る様に思うのである。
乾いたタオルで顔を拭いて、Z氏は心地よく感じた。
体は綿の下衣がぬぐってくれる。顔は出っ放しだから、Z氏はタオルでぬぐうのである。
昼が過ぎて、テレビでは天気予報が始まった。
「雨は夜八時くらいから降りだすでしょう。ただ北風が心配ですね。局地的にビュービュー吹くかもしれません」
Z氏はかぼちゃの種を食べて、物干台に出た。
物干台の手摺の端に、烏がかがまっていた。黒い目を動かして逃げずにいる。口を開けて声を出さずに鳴いて見せた。
Z氏が籠を取りに手摺に寄れば、烏は足を揃えて横様に跳ねた。三度跳ねて、軒の先あたりで翼を一打ちして舞い上がり、梨の木を越して行った。
三
Z氏が洗濯ハンガーを持って物干台に出た。竿に掛ける。
朝方は曇っていたが、今は晴れている。
午の天気予報が始まった。晴れ渡った空を映したあと、アナウンサーが、
「今日は曇りで明日も雲に覆われ、日曜日は雨になるでしょう」
Z氏は明日明後日も洗濯にあてるつもりであった。今は、窓より日の光が台所の床板を照らすのを眺めながら、はちみつで作ったシフォンケーキを、ナイフとフォークで細工物の様に切り分けている。
あくる日の土曜日、朝の天気予報は、『曇りのち夜から雨』と告げた。
空の晴れているのを見て、Z氏は洗濯をした。脱水も標準通り五分かけた。
一日晴れていて、洗濯物はからりと乾いた。
雨は夜半(よなか)になっても、明けても降らなかった。
日曜日、昨日の天気予報では、「今日、土曜日の雨は早く上がり、明日は晴れ間も出そうです」と言っていたが、今朝は、「今日一日、冷たい雨が降るでしょう」と言う。
物干台に出た。Z氏の涼しい眼には青空を行く白い雲が映っていた。
十時を過ぎて庭を見れば、草の色が濃い処と薄い処と斑になっている。
Z氏は部屋で『世界各国道具図鑑 東欧編』と題した本を開いた。
三角の天井からは、紡錘形の笠を掛けた電燈が吊ってある。
鳩時計が一時を打って、Z氏は台所で風が枝葉を鳴らす音を聞いた。午の支度に生クリームを泡立てる。
三十分ばかり、クランベリーにクリームを添えたパンを食べていたら、雨音がやみ、風も凪いでいた。
Z氏は部屋を出て梯子段を登り、物干しの扉を開けた。サンダルが濡れている。
物干台には水溜りが作られ、太陽の照る姿を映しつつも、雨だれの作る波紋が、現れては消えている。
部屋に戻って窓を背にして坐れば、Z氏を柔らかな日差しが包んだ。部屋の端から端までを明るくした。
四時過ぎから、お茶を飲んでいるうちに窓からの光は次第に薄らいで行った。窓を見れば、そぼ降る雨が庭を濡らしている。
時雨に木の葉が散る景色に、Z氏はお茶を飲みながら近づく宵を迎えた。
薄墨を流した様な空の一方には、日の沈んだ名残の色が赤くにじんでいる。
四
月曜日は朝から雨まじりの風が吹きつのっていたが、Z氏は洗濯機のスイッチを入れた。洗濯物の量を洗濯層の半分に抑えて、納戸に干し切った。
Z氏は台所に立って、クッキーを作り始めた。オーブンの蓋を閉めた時、窓を透いて日の光が床に差し込んだ。ひばりが芝草の上を跳ねている。
天気予報では一日大雨と告げていた。
Z氏は、ひばりの囀りをソファーで聞いていた。
あくる火曜日も、薄墨を流した様な空から雨が点々と滴っていた。空から筆の先につけた水を滴らせたかの様な降り方である。
Z氏は雨に濡れた冬羽織を洗う事にした。
洗濯の手始めに、冬羽織以外の物を標準コースで洗い、濯ぎの手前で洗濯機のスイッチを切った。
冬羽織を入れて、ドライコースのスイッチを押す。緩やかな洗濯を済ませ、一分の脱水の後、ドライコースは仕上がった。
冬羽織を出して納戸に掛ける。洗濯機の蓋を締めて、標準コースに戻し、脱水のみ五分間掛けた。
納戸に入って、東向きに切った窓を撥ね上げて、残りの物も納戸で干し切った。
Z氏は白いポットにお茶を入れて、居間でくるみクッキーを食べた。
天気予報は今日も一日大雨と告げている。
窓の外では梢を揺らせる音がするが、庭に眼を向けても、木の枝がしなるだけで降ってはいなかった。
Z氏は落葉の散らばる物干台に出た。
南の方から晴れてくる空は、だんだんとZ氏の物干台の上にも押し寄せて、刻一刻と明るくなってくる。
Z氏自身の上にも明るい日差しが下りて、シャツを白く光らせた。
五
大嵐が三月の始めに起った。春一番どころではない。風速三十メートル。台風並である。
天気予報では、「この嵐の原因はこの低気圧です」と言って天気図を指す。
「日本海に猛烈に発達した低気圧があるんですね」
猛然と棚引く洗濯物を見て、Z氏は乾きそうだと思っている。
六
『原始古代社会においては、他人より優れている事を示さねばならぬという競争意識が、集団全体の威信にまで高められた状態で常に存在する』
競り合いの原理は贈り合いの儀礼に表れており、民族学ではポトラッチと呼ばれている慣習である。
人生儀礼などの祭儀には、ある集団から贈り物を与える行いが含まれ、しばしばその贈る行いこそが最も重んじられる。
Z氏は鉢植えの茶を貰ったが、『茶は移し替えができない』との話をあとから聞いて、そのままにしていたら枯らしてしまった。庭に植えようかと思ったところに、坂下の遊歩道の植え込みを思い出した。
鉢植えを持って遊歩道に出掛けて植えた。植え込みには金木犀が咲き、田螺が草の上にいた。
一週間して、物干台に登ったら、桟の隙間に田螺がいた。何処からかやって来きたのかわからない。鳥から逃げて来たのだろうかと思って見るうちに、金木犀の花が物干し竿の台に載っているのに気がついた。
「…ポトラッチ?」
七
Z氏が庇のひしめく往来を歩いている。
菓子屋の角を左に曲がった。横手は床屋である。
この床屋はペルシャ猫を飼っている。子犬も飼う。のみならず、のら猫も養っていて、Z氏が通りかかった時、床屋の店先は猫の食堂の様であった。
硝子戸の向こうからペルシャ猫がその景色を見ている。その後ろでは子犬が転がった。
Z氏はしゃがんで手袋のまま三毛猫を撫でている。
出掛ける際に手袋をはめるのはZ氏の習慣であった。
手袋は綿である。夏も冬も同じ事である。
Z氏はふかふかとした物を好む。ざらざらとした物、とげとげとした物、また革やプラスチック、ゴムなどは苦手である。Z氏はセーターを持っていない。毛織物はふかふかとしていない。重くて、肌にちくちくする。
Z氏は代を払う際も、外で物を書く時も、やはり手袋をしている。ボールペンのゴムや、プラスチックに触れない様にしているのである。
ある時、Z氏は革の手袋を貰った。
はめてみたら裏地に布が敷かれているものの、革の感触が手首に伝わってくる。布は手首まで張られているわけではないから、縁の処は革が出ている。下履きに白い手袋をはめてみたら、革の感触が遠のいた。
ある日、マフラーを巻いた拍子に、革の手袋の指先が頬に触れた。冷たい感触がしたので、よそ行きに取っておく事にした。
床屋の店先で猫の背を撫でているうちに、手袋は毛だらけになった。
八
Z氏が売り出し中の商店街を歩いていた。布の吊りベルトをして麻で編んだ靴を履いている。
髪結所を曲がって、道具屋の前を通る。茶の葉を商う店まで出た。
たすき掛けをして、頭に手拭をかぶった人が、白い手甲をした手でお茶を差し出して、Z氏に勧めた。
「まろやかでしょう」
茶摘み娘の恰好をした人はそう言って、口元に微笑を含めて言った。
Z氏は口をつけて、まろやかに思った。
「やわらかい味でしょう」
やわらかい味に思った。
茶摘み娘の人は、別の湯飲みを出した。
「こちらは、お手頃なお茶です」
Z氏は手頃なお茶を口に含んだ。
「千円違うだけで全然香りが違うんですよ」
なるほど千円違うだけで相当香りが違う様に思えた。
「またお越しください」と言ったからまた今度来る事にした。
九
夜をこめて静かに絶え間なく物干台に雪が降り積もる。
しじまの深まった頃、Z氏はボール紙を持って、物干台に出た。頭から肩から雪が降りかかる。入口から物干し竿の処まで、ボール紙を床につけて、雪を押し分ける。明日の洗濯のために、一筋の路を作っておいた。
あくる日、まだ星が出ているのにZ氏は物干しへ出て、足元を見ながら洗濯物を干し始めた。
昨日作った物干しの小路に立ち、タオルやシャツを干す。
洗濯物が風にあおられた。タオルの一枚が板の様に揺れる。触れれば凍っていた。
澄み渡った藍色の空には、黄金色の月が細く懸かる。地平線の一方は帯状の朱が走り、はるかにたなびく雲の影を浮かばせている。
干してしまって部屋に戻る。ヒーターに手をかざす。
あさあさと晴れた空の色には、まだほの白い月がいながら、日は上って世界を包む。Z氏は、再び物干しへ出る。洗濯物を並べ替えて、納戸に持って行った。
早くに干して、雨でもないのに納戸に入れたわけは、Z氏が朝に出掛けるためであった。
Z氏が町に来ると、家の軒先に人が屈んでいて、その先に猫がいる。猫は二匹である。
茶に白が入った方は転がっている。白の方は足を揃えて坐って、割烹着を着た人を見上げて鳴いている。
おかみさんらしい人が、餌を皿にあけながら猫に話しかけている。
「今出ますからね」
Z氏がパン屋で白パンを買った帰りに、再び通りかかったら、白い方が、地面に置かれた皿に頭をつけて食っている。
茶の方は、後ろに控えて順番を待つ。眉や頬の毛が跳ねている。
そのうちに茶の方は歩きだして、生垣に入り込んだ。
十
Z氏が宵の口に商店街を歩いていた。商店街はクリスマスを迎えて、いつになく活気だっている。Z氏の前には、女性と男性二人が並んで歩いていた。
店先にケーキが並んでいるのを見てこういう事を話している。
「あれは何屋ですかね」
「さあ」
「和菓子屋ですよ」
十一
Z氏がお風呂から上がって、綿棒をほぐしている。外からは雨音が聞こえる。
爪の先で綿を抓んで、たんぽぽの綿の様にふわふわんにほぐしている。
ふかふかになったところで、耳の雫をとるのである。
今度は白くてふかふかしているスリッパを履いて廊下を進む。着ているパジャマはタオル地で、これもふかふかしている。
Z氏はふかふかとしたカバーをつけたドアノブを捻って部屋に入った。
ふかふかとした絨毯を踏んで、シーツとして敷いた白い綿毛布が包むペットに寝た。
Z氏は掛け蒲団も綿毛布である。綿毛布の方がふかふかしている上、洗濯機にも入る。
Z氏は綿毛布にくるまって眠った。雨音が耳立って大きくなって、Z氏はぐっすり眠る。
十二
Z氏が食料雑貨店に入った。
雛祭りを半月後に控え、売り出しのために設えられた陳列棚に甘酒が並んだ。
缶の物、ビニール袋入りの物、粉の物とある。Z氏は値段の手頃なビニールの物を手にした。ビニール袋入りにも三種類ある。通常の物のほかに、『無添加』と『甘さ控えめ』があった。
Z氏は『無添加』の方を二つ手にして会計に向かった。
Z氏の銭入は、打ち出の小槌を染め抜いた巾着袋である。平たいクリップで留めたお札のうち、一枚を出した。
甘酒はいかなる会社が作るのかと思って、袋の裏を見れば、酒屋ではなく味噌屋である。原料が米と麹に塩という、味噌作りに欠かせない物ばかりであった。
Z氏は、昼に白パンとエメンタールチーズを食べた。
台所に入って、甘酒の袋を鍋にあけた。煮過ぎた粥の様である。煮豆売場に置いてあったのはそのためかと思われた。
甘酒の袋に『同量の水を加えて暖めるべし』とある。『本袋(三百六十グラム)で四人前』ともある。
Z氏は目分量で袋の半分を鍋に入れた。
水を入れて煮立たせた。木の椀に注いで飲む。
甘酒だから甘くておいしい。飲んだ先から足が温かくなってきた。酒の味も感じない。
上澄みを飲み切った。粥の様に米が沈んで溜まっている。酒の味がしてきた。
甘酒にアルコールは入っていないはずだったが、咽に辛味を感じた。酒が菓子などに入っていれば、一滴であってもZ氏にはわかる。わかれば酒の味しかしなくなる。
Z氏は椀を置いた。立って、きなこを持ってくる。椀に入れて混ぜた。相変わらず酒の味がしたが、次々ときなこを掛けて、しまいに練り飴の様にして片づけた。
鼻の奥から伝う物があった。鼻紙を取って見てみたら、赤い物がついていた。
あくる日は、水を二倍にして飲んだ。粥の様な物は、きなことはちみつで埋め尽くして片づけた。残った一袋は、ホットケーキの素と混ぜて、酒饅頭ならぬ、酒蒸しパンにして平らげた。これはおいしかった。
十三
Z氏が垂れ込めた雲に、灯火の紅く反映する夜空の下を歩いていた。
コートの裾を翻す風にあおられながら公園に入ると、人々の影が忙しく動いていた。行く手からは人々の声が聞こえてくる。
石段を登って、垣に仕切られた路を孤形に曲った先に、桜の木の下で人々が宴会を開いていた。
Z氏はこの寒空の下、どの様な姿でいるのかと思って、顔を向けようとした。
階段の脇に立っていた黒猫が、一つ鳴いてZ氏を制したので、Z氏はそのまま公園を通り抜けた。
十四
午の二十分前に洗濯物を干しながら通りを見れば、そば屋がバイクで出前に向かうらしい。また午の二十分過ぎ、窓の外を見たら同じそば屋が、同じ姿勢で、荷台を空にして反対側を走って行った。どこまで出前に行ったのかと思いながらZ氏は洗濯物を干している。
十五
Z氏が月明かりの路地に、マント姿の影を伸ばしながら歩いていると、向こうから明滅する青白い物が近づいてくる。たいへんにまぶしいので、Z氏は目のあたりを手で覆って、立ちどまった。しばらくすると何かが行き去った音がした。Z氏が目を開けると、何もなかったので、家まで急いだ。
十六
Z氏は梅雨晴れのから風の吹く日、五時過ぎに夕食の支度に取りかかった。
Z氏の食卓は一汁一菜にデザートで整う。
粟や黍を混ぜたご飯は、ヒジキや豆などの入った炊き込みご飯である。
味噌汁は具が多い。豆腐、根菜、玉葱、茸。あとはご飯が炊けるまで弱火で放っておく。
一菜と言うのは、Z氏のためには果物の事である。
三宝柑、サクランボ、桃、梨、リンゴと旬に応じて、木の皿に置く。ヨーグルトを添える。
この日は、食事のあと、はちみつきなこを食べていた。
Z氏のデザートは、このほかにも練り胡麻とあんこを混ぜた胡麻あん。汁粉ときなこを混ぜたきなこ汁粉などがある。
Z氏は食事を済ませて、明日のために洗濯物を浸けておく。
夜に入って、雲がしきりに飛んでいた。
霞がかった梨の梢を一陣の風が渡り、青い実は夜のなかで揺れ始める。
十七
土曜日は予報では雨と言っていたが、窓から見れば日影が薄くかかり、立ち木の木陰が揺れている。
洗濯の仕上がった音がして、Z氏が立ち上がれば、雨音が一つ聞こえた。
降ってはいないが、聞こえた以上は予告の様なものだろうから、Z氏は納戸で干す事にした。
「これから夕方までは、山沿いを中心に、にわか雨、雷雨にご注意下さい」
降水確率は午後四十パーセントとなった。
「これから二、三時間は都心でも雨が降りやすい状態が続くかもしれません」
Z氏は部屋に戻った。雨が降ってきたから、雨音を聞いている事にした。
この日は一日降ったりやんだり、湿気を孕んだ風が黄色い物干台を渡っていた。
十八
空には珠の様な月が懸かっている。
Z氏が、新聞閲覧所の帰りに往来を歩いている。片側は車の通りで、片側は瓦屋根の商店が並び、やがてお寺の塀に続く。
前を行く人々はいない。後ろからは話声が聞こえる。それが近づいてくる。
夜辻にかぶさる柳を右に曲がったところで、Z氏は歩を速めた。コンクリート細工の建物がうち並ぶ往来を、寺の門まで抜け出して、左に切れて公園に入った。声も公園に入って来る。
爪先上がりに行くと、背の高い灯に、列をなす石灯籠が照らし出されている。
公園を明るく通り抜ける道が二筋ある。一方は坂道で太い男が登っていた。もう一方は階段で、こちらは往来が絶えている。
Z氏は左の階段へ歩を向けた。
Z氏が階段を二十段ほど登ると、声を出す人々も来た。
人々の頭の影が階段を伸び上がり、Z氏の踵と擦れ擦れになる。
Z氏は公園を抜け出て、信号を渡って、ネオンの照らす往来に出た。もう声はZ氏の後ろへは来ない。向かいの歩道を行き、赤い暖簾をくぐった。
十九
「天気です。梅雨明けした東京は暑くなりました。今日は雲に覆われていますが、ところどころ日差しが出ています。午前を中心に天気が変わりやすく、ところどころ雨が降るかもしれません」と朝の七時に言う者をテレビが映している。窓の外は土砂降りである。
二十
Z氏が茶の葉を商う店の前を通りかかった。茶箱が積み上がっていて、人もいないから素通りした。
農協の銀行に入る。ほかに客はいない。Z氏が坐っていれば、農人体の媼が窓越しにZ氏を見ている。
そこに一人のサラリーマンが入って来た。
「いらっしゃいませ。ご案内します」
「いや、暑いからさ、涼みに来ただけ」
二十一
Z氏の町まで地下鉄道が伸びた。
Z氏が早い時間に坂を下りて大通りへ出ると、人々が皆、同じ方向に歩いて行き、同じ建物へ入って行く。揃って背広を着ている。
Z氏も入った。階段が下へ向う。人々は皆下りている。
Z氏は路線図を見上げて縁起のよさそうな駅名を見出し、そこまで行ってみる事にした。
プラットホームは人々が立て込んでいた。どの人々が列をなして、電車を待ち合わせているのか見分けがつかない。鉄道はとまっていて、黒い着物を着た人々が背広の人々を車輛に押し込んでいた。押す方も押される方も顔を赤くしている。
藍色の帽子をかぶった人々は、開いた掌を前に出して人々を制していた。電車の扉が引っかかりながら閉まると、人々の一群が横様に動いた。
Z氏は踵を返して改札に戻り、混んでいて乗れなかった事を改札係に伝えて、外に出してもらった。
上を見れば、電気で書かれた文字が、『混雑のため遅延』と示していた。
二十二
Z氏が朝に玄関を出ると、道にコードが何本も横たわっていた。電信柱には梯子が掛けられて、ヘルメットをかぶった人々がよじ登っている。Z氏は扉を閉めて、出掛けるのを止した。縁側に出て腰を掛けた。ヘチマの茎の滴が、硝子瓶に溜まるのを見ている。
空は綿雲がぽつぽつ浮かび、庭では眉の長い猫が躑躅の花に頬を寄せている。
梨の花が空の蒼を背景に白く咲いていた。
二十三
「デッサンだけ予備校に通ってるけれど、絵は苦手なんだ」
「冬期講習はみんな焦って、ぎすぎすするらしい」
「そうかねえ、そんなに焦るかねえ」
「教室に日めくりカレンダー作った。卒業まで何日というの。先輩がやってたからうちらのクラスもやってみた」
こういう話がZ氏の背なかから聞こえてくる。
Z氏は大勢が乗り合う鉄道に乗っていた。
次の停車駅は、Z氏に近い扉と逆の側が開くと言う。
駅に近づくと放送があった。
「お降りなさる際は声をかけあってお降り下さります様願わしゅう存じます」
駅に着くと、Z氏の眼と鼻の先に立つ人々は下りるけしきがなかったので、Z氏は声をかけてみた。
すると、Z氏の立つ場から出口まで、人々が少しずつ片寄って、一条の道が出口まで通った。
Z氏は人々が退いた道を通って、諸々の人々が落ちあうプラットホームまでたどり着いたのであった。
二十四
Z氏がまたプラットホームを歩いていると、蔵の様な物が据えつけてある。
鉄の扉がついていて両開きの様である。Z氏がその前まで行ってみると、おもむろに両の扉が引かれて、いろいろな顔をした人々が流れ出て来た。
Z氏は、右か左か、どちらに避けようかと思った。人々は踵を返して、裏へ流れて行った。
階段の裏まで歩いて行くと小屋が建っている。簡単な食べ物や飲み物、それに簡単な読み物が吊るされたり積まれたりしてあった。御堂か祭壇の様でもある。
プラットホームを行く人々が、黙って簡単な食べ物や読み物を手に取って、代を置いては去って行く。
Z氏も窺ったが、食べられそうな物や読めそうな物は見当たらなかった。
二十五
Z氏が白線伝いに歩いて行くと、人々が四角く列を作っている。
人々は似た様な模様の服を着て、天井からの明かりにひたされている。
Z氏も人々の後ろに並んでみた。
暗い方から線路を伝って、電車が滑り込んで来る。電車の腹についた扉が開いた時、人々がいっせいに吐き出されて、待っていた人々のかたまりが二つに割れた。
Z氏は出口と出口の間、電車の壁の間際に立って、出る人々をやり過ごしている。
人々の流れは尽きそうにない。放送があった。
「お乗りになられます方は左右を御覧なさって、空いている所からお乗り下さります様願わしゅう存じます」
Z氏は左右を見比べた。隣の扉では人々が電車に吸い込まれだした。Z氏は踵を返して並んでいたかたまりから離れ、隣の扉へ向かった。
待っていた人々が乗り切って、Z氏も乗ろうとしたところで、入口が人々で塞がった。電車のなかはぎっしり人々が詰まっている。
Z氏は左右を見た。一つ先では人々が乗り切っている。
Z氏は向かった。窓越しに窺えば、つり革のいくつかは空いている。
出入り口には男が立っていた。鞄を提げて、仁王のごとくに立ち塞がっていた。Z氏はその前に立ってみる。
男は寸毫も動かない。甲高い音がして、鉄道の扉が閉まった。
Z氏は人々の行き交うプラットホームで棒の様に立っていた。
二十六
八月一日に梅雨が明けてから、雨が三週間降っていない。空は限りなく晴れて、夕立の気配さえない。昼ひなかに、はるかに雲の浮かぶ景色も、夕方になれば跡形もなく晴れ渡る日ばかりが続いた。
テレビの天気予報が告げた。
「にわか雨があるかもしれません。これから川へ出掛ける方はお気をつけ下さい」
Z氏は川へ出掛ける予定はないので、洗濯をする事にした。
二十七
目が覚めて、夢現でテレビのスイッチを入れれば、「雷雲が近づいています」とスピーカーから聞こえた。
Z氏は聞き澄ませた。
「関東地方は昼前後から降るでしょう」
枕元に引き寄せた時計を見れば、まっすぐに六時を指している。Z氏も時計の針と一緒になって、まっすぐになって起き上がり、顔を洗って部屋に戻った。
今日の洗濯はおしゃれ着用液体洗剤であれば、溶けるのを待つ間もなく洗濯機のスイッチを入れた。
干す前に、サンダルを洗っておこうかと思って物干台に出た。
物干台は一面濡れて、出来た水溜りの上を風が渡って波を立てている。
眼を凝らせばさらさらと降っていた。
二十八
Z氏が電器屋で、竿の様に真っ直ぐ立って洗濯機を見ていた。傍から見れば、洗濯機とはまるきり関係のない様に立っている。ところに、女子の学生が、「乾燥機はこれが一番安いですか」と尋ねてきた。Z氏は話しかけられたから、「そうだと思います」と答えた。
Z氏が本屋で画報近世三百年史を胸いっぱいにひろげて、立ちながら見ていた。ところに、トマト柄のワンピースを着た年少ない人が来て、「絵本売り場はどこですか」とZ氏を見上げた。Z氏は知っていたから、「二階の奥です」と教えた。
Z氏が靴屋で靴を選んでいた。ところに、頭巾をかぶったお爺さんが、「これは出ているだけですか」と特売品を指した。Z氏は、特売だから売り切りだろうと思って、「そうだと思います」と返した。お爺さんは、「あ、これは」と会釈をすると、靴の踵をつまんで右手に提げて、会計へ向かった。
Z氏が薬屋の店先に立って、マスクを選んでいた。ところに、赤子を細帯で抱えた人が、「これを箱で欲しいんですが」とビスケットを持って来た。Z氏があたりを見ると、エプロンをつけた店員がいたから、「あの方が、ビスケットを箱で欲しがっています」と知らせた。
Z氏が服屋で何かふわふわした物を探して、ワゴンの前に立っていた。ところに、裾の狭いスカートを履いたOLさんがやって来て、「これみんな五百円なんですか」と聞いてきた。Z氏が「そうみたいです」と答えると、「あ」と短く口から漏らしたあと、「安いですねえ」と頷いた。Z氏も「そうですねえ」と頷いた。
二十九
宵月夜にZ氏が風を入れようと踊り場の窓を撥ね上げた。道に数字やローマ字が書かれている。
Z氏は窓を閉めた。
あくる日、Z氏は出掛けて夕方に帰ってきた。
夜になって窓を開けると、道に切れ込みが入っていた。
Z氏は窓を閉めた。
またあくる日は、アスファルトが一度掘り起こされて、また埋められた様になっていた。
それから一日二日とたつうちに、路のまんなかには闇を流した様な帯が伸びて行く。
土曜日になって、Z氏は洗濯のために家にいた。夕日の残照に霞む道には何も起きなかった。
月色の帳が黄昏を覆い、鈍色の幕が窓辺に下りる頃、窓から雨音が届いた。
三十
Z氏が細い谷道を下っていた。
屈曲した坂の両側は、反射鏡のついた電燈が灯され、商う店の看板を夜の空気に浮かび上がらせていた。
Z氏は空を見上げて、冴え返る上弦の月を眺めながら、疎らな星を数えて歩いた。本当は、一面に星が瞬いているのだろうと思って坂を下っている。
坂の途中から間口の狭い酒亭が並んで、入口から漏れ出す光が往来を横切っている。
人々は働き着のまま、キャビンの様な店に這入って、背もたれのない椅子に腰をかけ、テーブルクロスのない机に肘をかけては、のけぞったり、コップを持ったり、手を叩いたりしている。
Z氏が歩きながら窺うと、一つ目の入口も二つ目の入口も、それから先も、人々はやはりコップを持ったり、のけぞったり、腕を組んだり、手を叩いたりしていた。
坂の尽きるあたりに、板前の恰好をした男が立っていた。紙の束を小脇に抱えて、行き去る人々にその紙を渡している。
こんな時分に、板前の恰好で往来に飛び出してきてまで、知らせねばならない事とは、どんな事だろうと思いながらZ氏は坂を下りた。Z氏は渡しやすい様に歩を緩めたが、板前は紙を渡す代わりに、会釈をした。それがZ氏が行き過ぎるまで頭を上げない。
三十一
澄んだ風が蒼い空を磨いている。
Z氏の行く手のはるかな空には、白い雲の群れが盛り上がる。
空を眺めて思うは、我が家の物干台の景色である。
郵便局の角を折曲ると、レンガ色をした道が一筋続いて、商店が並んでいる。
床屋のまわりでは脚絆をはいた人々が鉄の棒を組み上げて、往来の上に幾何学模様の影を作っている。
黄色いワンピースを来た十ばかりの小さい人が、風船片手に跳ねながらやって来て、向う先はケーキ屋である。
Z氏は隣のパン屋に入った。
胸元に蒼いリボンを結んだ高校生が三人、パンを選んでいる。三人とも、菓子の入ったコンビニの小さい袋を提げている。三人ともふっくりしている。
一人は水色をしたアイス片手である。
隣の一人は袋に顔を突っ込む様にしてあんまんを食っている。
もう一人は棒についた丸いチョコレートを持っている。
「これ食べてみる? かわいいよ」
そう言って、口に入れた。
「わたし、いっつも食べているんだ」
「食べ物にはね、人の知らない栄養があるんだよ。だから万遍なく食べなきゃいけないんだって」
「やっぱりね」
「栄養とは逆の意味で、体のためにならないある種の蛋白質の摂取を減らして、体に負担を掛けないと言うのもあるみたい。万遍なく食べる事で、特定の物を食べる量を減らすんだ」
「それもある」
そう話しながら、一人一人の盆にパンを二つ載せてまだ選んでいる。
Z氏は白パンを受け取った。
Z氏がパンとジャムの入った包みを抱えて床屋の店先を通りかかったら、鉄棒がなくなっていて、隣の水菓子屋の前に集められていた。
あくる日通りかかれば、水菓子屋が鉄棒でかこまれていた。
三十二
飴細工職人が硝子を張った箱に入って、渡した鉄板の上で飴を練っている。赤くなった電熱器を逆さに吊るして、白い着物を着て、芥子色の飴を柔らかくしている。職人の顔もなかなか赤くなっている。脇に置いた小瓶の蓋を取って、箆で紅を出した。飴の上に載せてまた練る。
Z氏は、手は熱くないものだろうかと思って見ている。飴は芥子色から橙色になる。
Z氏の脇に八つくらいの浴衣姿の女の小児がやって来た。Z氏と並んで、自分と同じ眼の高さにある飴をつくづく見ている。
隣り合わせにある豆腐屋の隙間から白黒斑の猫が出て来て、店先にとめてある自転車と店の壁の間に入り込んだ。顔を出して伸び上がる。自転車の小脇につけた箱の角に顔を擦りつける様にして上を窺う。往来に出て来て、同じ様に伸び上がって、箱を窺う。顔の太った猫である。
飴細工職人は橙色のかたまりを敷きのべて、白と茶のかたまりを載せると、太巻きを巻く様にして丸めた。
Z氏も小児も、どうなるのだろうと思って、いよいよ離れない。
風が商店街の立ち木の小枝を鳴らしていた。
三十三
Z氏が物干台に行くと、サンダルの片方だけが横向きに立っていた。見上げれば、空いっぱいの雲が暇なく通行している。
午の天気予報を見る。
「今日二つの台風が消えました」と言っている。
「雲は取れないでしょう」とも言う。
風ばかり強く残り、湿気はない。風の吹くにつれて藍色に澄み渡った空が見えてきた。
Z氏は、紅茶の用意をして、アーモンドクッキーの入った菓子箱と、牛乳の入ったポットを並べている。
庭の梨や桃の木が風にしなり、ひばりが風を受けて舞い上がる。
三十四
天気予報の者がテレビに映って、口を動かしている。
「東京は曇りがちですが、時折晴れ間も見えます。このあとは次第に雲も切れてきて、雨の心配はありません」
Z氏が物干台に立って、手をかざして見上げれば、晴れた空の半ばを雲が覆っている。
居間に戻って、白磁の鉢にきなこ、はちみつ、練りごまに練乳を入れて練っている。そこに、クルミ、スライスアーモンド、かぼちゃの種を混ぜ込む。これをパンに盛って食べるのである。
Z氏がお茶を飲んでいると、日が差してきた。物干台に出て空を見れば、南の方面に灰色の雲が立っているが、北の方は、蒼い空に白い雲が刷毛で掃いた様に走っている。東から吹く風に枝葉が鳴る。
Z氏が空を眺めていると、手摺に烏がとまった。屋根に下りて、棟木にとまって、庭を見据えている。首をかしげた。一つ跳ねて町の方へ向かって、羽音を立てて行き去った。
北の方の青空は、次第に近づいてくる。
見る景色に雨曇らしい物はなく、三角屋根の影が庭の芝生を斜めに区切っている。
三十五
Z氏は小児の頃、マラソンなる運動は長い距離を走る事が目的で、早く走る事は目的ではなく、早くゴールする人は、早く戻ってしたい事があるのだろうと考えていた。
そうして、学校のまわりを何周かするマラソン大会では、周を重ねるごとに姿を変える道端の猫を見たり、空に懸かる飛行機雲を追ったりしては、毎度最後に近い順位であった。
三十六
Z氏が小児の頃、図工の授業に木箱を作る課題が出た。ほかの小児は、彫刻刀で思い思いの模様を刻み、紙やすりで角を丸くするなどの工夫をしていた。
小児のZ氏は、模様を好まず、彫刻刀を使わず、木肌を滑らかにしたあとは、ひたすらニスを塗り重ねていた。
ほかの小児が仕上げに一度塗るところを、時間の限り、塗っては乾かせ、乾かせては塗って、四度重ねて塗った。模様をつけるよりも、ニスをきれいに塗る方が好い物と考えたのである。
生徒の作った箱を教室に並べて飾った時、Z氏の箱は漆塗りの様な光沢を得て、差し込む日を黒板に射返していた。
三十七
Z氏が学校に通っていた頃、社会科見学に山里を訪れて、相馬焼の湯飲みに絵を描く課題が出た。
Z氏は食器は無地が好いと考えていたので、そのまま、青磁の色の物を欲した。授業の一環で絵をつけねばならなかったので、糸底に線を引き、一周して、線と線との端をまとめて円を描いた。あとは、半纏を羽織った玄人のお爺さんに馬を描いてもらって済ませた。
三十八
Z氏が小学校六年生の時、学校からの帰り道、大人が郵便局までの道を尋ねてきた。Z氏は知っていたので、「ああ行って、こう行って」と言いながら、右、左と指で示した。一緒にいた女の友だちが、「それじゃあ、わからないよ」と笑って、代わりに教えていた。
三十九
Z氏が商店街を歩いている。鳥屋の店先で立ちどまった。
籠のなかに鶉がいる。鶏をひょろ長くして、一回り小さくした様な鳥が、茶色い羽根を収めて、ひょいひょい同じところを踏んで歩いている。隣には兎がいる。兎は鳥扱いだから、鳥屋に陳列されている。これは眼を一本の線にして眠っている。そのまた隣の籠には、顔の黒い、白い羽がふわふわした鶏みたいなのがいる。しばらく首をかしげてZ氏を見上げていたが、立ち上がって、小さく鳴きだした。続けざまの鳴き具合も、鶏そっくりである。札には烏骨鶏とあった。
四十
Zがふわふわの三角帽子をかぶって夢に入っている。
フランネルのシャツを着て、薄い地の背広を着た青年がイギリスの田舎にやって来る。 三人姉妹と主婦の家に泊まる。
主婦がその日の為事を済ませ、薬草を煎じたお茶を飲んでいるところに、青年が眠たそうな顔を扉から出して、「上で音がする。鳥の音だと思う。あれは鳥が落ちた音」と言う。
屋上は庭園になっていて、植木が伸びたい様に伸びている。お爺さんと犬がいる。お爺さんは毛のついた袖なしの毛皮を着ているから、猟師らしい。犬は猟犬だろう。犬の体は真っ黒な毛が、大仏様の頭の様になって生えている。柴犬くらいな大きさの犬である。白鳥が羽で地面を這っている。そこに主婦がストールを巻き直しつつ、裳裾を地に引いて、扉から出て来た。
「ハックルベリーさん」と呼ぶ。
「なんだね。あんたも白鳥を助ける気かね」
「まさか、そんな事思ってませんわ。でも」
猟師は、長い息を白い髭の間から吐いた。いつまでも吐いている。たいへんに長い。
主婦は白鳥を抱え上げる。
食堂に入る。長い机には、花が盛られた鉢が置かれ、銀の燭台に蝋燭が灯っている。
奥に国王と王妃がいる。
椅子ほどもある卵に顔が描いてあって、線で出来た手足が伸びている。ダイアモンドのはまる金の冠を戴いているから国王と王妃だとわかる。
卵の形をした国王と王妃が歌う様に話している。髪に花を挿した娘たちが唱和する。
寝室では国王と王妃が寝ている。寝床のカーテンが閉まる。王の姿がカーテンに映り、体も表情も移り変わる。また一回り大きくなる。からくりのごとくに。
目の覚めたZ氏がまた夢に。
「それは子猫ですか」
「ええ。子猫です」子猫は言った。
四十一
Z氏がテレビを見ている。テレビは鳥を映している。
十八世紀まで、オオウミガラスという鳥がいた。生態もペンギンそっくりで、水に潜って魚をとり、陸に上って、卵を産む。ペンギンよりも、水中での動きは早かったらしい。ペンギンに似ているものの、ペンギンではない。動物学者は言う。「姿はそっくりですが、ペンギンではありません。仲間でもありません」
四十二
月の銀を冴えかえす夜更けに、Z氏は目が覚めてしまった。眠られないので、起き直ってテレビをつけた。三時が過ぎている。
テレビでは、羊の群れが草原を行く姿が映っている。
スラブ人らしい男の足元を行く雲の様に抜けて、木のかこいに入り込む。羊は群れから離れない。同じ方向に同じ速さで走って行く。羊はひしめいて走る。かこいは先細り、羊はしぜん一列になって走り抜ける。羊は皆と走り、前の羊について行く。
通路の脇に男が立ち、羊に構わず扉を閉める。前の羊ばかり追っていた羊は、頭を一度二度と、ぶつけたあと、横から木の扉で押し出される様にして、開いた左の道へと抜ける。あとから続く羊は前の羊の尻しか見えないのだから、分岐点で自ずと左へ行く。かこいから小屋へ入り込む。羊は小屋に入れられ、一頭ずつ出されては、たちまち背を抱え上げられて、首を肘で抑えられつつ、人が床に坐った様な姿を取らされる。手足を前に突っ張り、足から胴、頭と、毛を刈られるに任せて、おとなしくしている。羊とは思えぬ肉色の有様となって、四本足で立つ。つぶらというより、黒い点ばかりの目で横を向く。次に待っていた羊が来るから、その場から出される。
テレビはただ音楽と映像を流している。Z氏は少しばかり手洗いに出た。出たのは三時十九分で、これはテレビ画面に映っていた。戻って来てまたつけてみれば、三時二十三分だった。
そこに映っていたのは、先の続きである。仕事を果たしたらしい男たちと女たちが、藁や土の上に坐って、肉や芋を食っている。画面には羊の姿はない。あるのはバケツの様な鍋に入った肉のかたまりである。それを皿に盛り、手でつかんで噛み切って、照れた様に食う若い男が映る。四分の間にこうなった。最後に、夕日に映える馬に乗る男と、取り巻く犬どもを映していた。羊の姿はない。
Z氏はテレビを消して、蒲団を頭からかぶってお祈りをした。外は月の光が一面に照り渡っている。
四十三
Z氏は小児の頃、積み木を好んだ。今でもZ氏は物を拡げる癖はなく、書類でも本でも積み上げてしまう。
四十四
洗濯をすると、洗濯室や物干台で、洗濯機と籠、また籠とハンガーの間をくるくるするせいか、Z氏はこの頃、眼をまわしている。
四十五
猫は自由に歩き回り、昼寝をし、膝に乗る。
初め、猫は二階家の軒下にいた。そこで通る人ごと見上げては、じゃれつきそうな調子で、子猫の体全体を張り切らせて鳴いていた。
そのうち見なくなった。Z氏はあれだけ鳴けば、誰かしら優しい人が飼ったのだろうと思った。一月たって、二階家の隣の居酒屋の店先に、高く鳴く猫がいた。
茶に白が入った体の柄も、額に白い斑の入った顔も、鼻艶や足つきも変わらない。何より、鳴き方で同じ猫だとわかる。一月ばかりで一回りも二回りも大きくなって、大人の猫に体つきが近づいている。
猫が住み着いたのは、居酒屋であった。猫にとっては、好い所を見つけたものだとZ氏は思った。
居酒屋と隣との合間に傘が拡げられた。木箱を置いて寝床に、鮑の貝殻はお皿になる。
猫は明るいうちは、店先に伏せた酒甕の上にかがまっている。
地面より高い所にいるものだから、寄らずとも猫が見える。
「今日も猫がいる」
Z氏がこう思って近寄れば、二度鳴いて、酒甕から地面に下りて駆けて来た。
足元まで来ると、Z氏のマントの裾にあしらった亀の画を眼で追い、また靴先の臭いを嗅いでいる。
嗅ぐのにあきれば、背を向けてしゃがみこむ。毛繕いを始めた。
撫でてやったら、のどを鳴らした。
唐突に起き上がり、突進して股の間を抜けようとする。マントの裾を暖簾の様にくぐろうとした先に、くるりと翻って毛繕いをした。Z氏は猫を眺めている。風が吹いた。吹かれた丸い葉っぱが猫の背に載った。猫は毛を繕っている。
猫は、人々の多く行き交う道を勝手に動くものだから、人の方が猫の動きを見計らって避けている。猫がまんなかに坐っていれば、人が端を行く。猫が駆けだせば、人がとまる。猫がふし転(まろ)べば、人が下がる。
ある日は、勤め先からの帰りと見える女の人に抱えられて、酒甕の処まで戻された。目を見ればとろとろとしている。
「眠いのかね」
Z氏がこう聞けば鉤形に目をつむった。
四、五日してZ氏が通る。居酒屋が見えたあたりで、「猫はいるかな」と思うまでもなく、道端にいるのが見えた。踊っている。体を起して、二本足で立っていられる限り、右また左へと前足を空に泳がせる。次におしつくばって、首を低く押し出したと思えば、車道との境の植え込みに向かって踊り込み、前足を空に躍らせる。後ろに下がって、蹲った姿で何かを見据えている。人通りが切れる。狂い遊ぶ。これを歩道を横切って繰り返す。
どうかすると車道に出そうである。四角く刈った植え込みをかき分け、乗りかかる。体が軽いから植え込みに埋もれずに浮いた。
猫は酒甕にいない時は、店先に坐っている。
玄関先に置かれた待ち合いの椅子に潜り込んで、前足を揃えて坐っている。
ご飯を待ち切れず、貰いに来たと言うけしきで、店の招き猫の様に坐る。
Z氏が来た。
「猫がいるな」
Z氏が思えば、猫は振り向いてZ氏に寄りついた。
ひとしきり鳴いて、Z氏の足元を廻っている。
あくる日は、角に吊った赤提灯の下で寝そべっていた。ソファーの様である。
近寄れば、声を出さずに口だけを動かした。今日は腹いっぱいと見えて、眼を細めている。腹這いになって動かぬから、Z氏は歩きだした。猫は起き上がってついて来た。立ちどまれば猫もとまる。歩けばついてくる。Z氏の足に並んだ。
「遊びに来たいのかね」
Z氏がこう言えば、猫はわかった風であった。
Z氏が歩きだせば、猫はZ氏の後になり、先になり、ついて来る。
大人の手前まで成長した猫は、その日からZ氏の家に住み着いた。
Z氏の家に住み着いた猫は、まだ名を付けられていない。Z氏が洗濯物を干していると、不思議そうに見上げている。
時折、『猫だ猫だ玉だ玉だ』と駆け寄って来る小さい人たちに、玄関先で搔き撫でてもらっている。
四十六
朝に猫が二匹、木の根元で日に当たっていた。寝ているうちに日陰になった。
了
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