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【民俗学漫談】縄文土器

最近、人類の文明以前に興味が出てきました。
石器時代です。
日本で言えば、縄文時代です。

日本の土器の歴史は確認されている限り世界でもっもと古く、1万2千年前には使用されていたらしいです。

土器が日本で最初にできたというよりは、だいたい同じ時期にいくつかの場所で作り出したのではないでしょうか。

現代でもそうですが、竹や木で作った入れ物は造形が少ない。

今はもうプラスチックですが、土でもプラスチックでも、成型して作るものは、形を凝らしますね。

縄文草創期の土器作りは、なぜか、簡単に作れるものではなく、円底深鉢や尖底深鉢あるいは平底方形などの多様な造形に挑んでいるんですよ。

何で、わざわざ作りづらい形にしたのかと言いますと、それまであったような籠やや樹皮、獣皮などで作った袋に似せようとしたらしいんですね。

土器という新しい器に、新しい形状を作り出すのではなく、それまで使っていた、蔦蔓や竹で編んだ籠や樹皮、獣皮などで作った袋など、土器以前の器物のイメージが口縁や胴部の装飾、緻密な爪型紋などに投影されているんですよ。

模様なんてつけなくていい土器なんですが、わざわざ爪や縄などで、樹皮や獣皮のような模様を付けた。

縄文人は樹皮籠、網籠、皮袋など様々な入れ物の形のイメージをそのままの形で作ろうとしたらしいんですね。

人間は、新しい道具ができても、形はそれまでのようなものでないと落ち着かないんですよ。

土器はそもそも入れ物のアップグレード版だった。

最初に先のとがったものや底が平らで四角い土器を作った。

新しい材料を発見しても、何か昔の物をそのままにしておかなくてはいけないという発想があるわけです。

網目模様やかがり糸までも土器の飾りとして表そうとした。
自分たちの見慣れたものを作ろうとする心理があります。

それは真似であるが、その真似がやがて必然となり、文様となる。

土器の縄文の始まりは、草創期の終わりころ、7000年前ですが、更にその模様をつけるための専用の道具を作るのに1000年かかっているんですよ。

機能的にも心理的にも同じ位置にある道具でないと落ち着かない。

人は、物についたイメージを易々と外せないんですね。
その造形、用途、置き場所に至るまで。
これは人間関係においても同じである。
人は他人を自分のイメージに押し込めようとする。
自力でイメージの枠から自由になるには、自力で夢から覚めることに等しいわけです。

モードはどこからかとってくるものですが、モードというものはそもそも他からとってくるものであれば、縄文土器こそは、モードの先駆けと言えましょう。

かつて、木目調の電化製品がありました。
70年代、80年代くらいですか。

テレビもクーラーもステレオも、石油ストーブまで木目調でした。
家具調こたつなんて、木目調のこたつもありましたね。

自分たちの暮らしている部屋にあるものは、木でできていた。
家具、タンスでも、ちゃぶ台でも、木なわけです。

だから、テレビでもステレオでも、まあ、木目でいいだろうという発想です。

冷蔵庫は、居間にあるものじゃないですからね、白でよかったわけです。
炊飯器も。

何年か前に、HPでしたか、木目調のノートパソコンを出していましたが、売れなかったんじゃないでしょうか。

20世紀の人間と同じく、縄文時代の人間もまた、それまであった木などで作った器に似せて、土器を作ったわけです。

形を似せれば同じ質が宿るということ、なぞらえるということですね。

土器というものは、土で作ります。
土は当時の新素材ですよ。木や竹や動物の皮や骨に代わる新素材なわけです。
最大の違いは、土はこねて、形を作り出します。
自由に造形ができ、焼くことで水に溶けない物質に変えられるという性質を持った新素材なわけです。

土はもともと形を持っていませんが、その形を持っていないものに形を与えるという感覚を人類は得たんですよ。
これは、一つの飛躍なわけです。

土をこねて、『付け加える』との感覚はそれまでの木や骨にはなかったわけですから。
これは、人類に頭の中のイメージを現実化するという創造的な感覚を与えたわけです。

それまでの狩猟や採集は、既に存在するものをいかに手に入れるかの試行錯誤でしかなかったんですが、土器作りは、何もない所から、何かを作り出すという可能性を与えたわけです。

人間は、可能性ですからね。

それが脳がイメージしたものを手で作るという行為の発展に繋がったわけです。
その可能性が広がり、やがて、自分の住む世界を変える、自然に手を入れて、利用する考えに至るようになるわけです。

頭の中にある思考を現実化することができるわけだから、現実的な機能に加えて、自分の世界観までをも物として表現するようになる。

宗教観では、それまで自然に向けていた、ぼんやりとした畏敬の念が
創造神話の構築へと向かうことになります。

煮炊き用であった土器が、前期あたりから、盛り付け用ができ始め、中期から増えてきます。大きさから言って、銘々皿ではありません。
盛り付け用の土器は祭祀や儀礼に用いられたと考えられています。

鍋やフライパンのまま、人に出すことはありませんからね。盛り付け用です。

それがやがて、火焔土器と言う例の派手な土器の登場となります。

あれは、ちょっと、いくら縄文時代でも日常ではありませんね。
非日常です。

縄文土器を美術とするのかどうかと言う話もありますが、とにかく、祭祀道具であったことは間違いありません。

ここなんですが、縄文時代には今で言う様な宗教はなかった。

宗教はないのに、祭祀を行っていた。

祭祀も、今の感覚の祭祀というか、お祈りに近いというか、呪に使い物であったと思われます。

縄文土器は、人間が人間に対して作ったものではなく、神に対して作ったものなんですよ。

それが縄文時代なんですよ。

宗教は神に向けて物ではなく、神の存在を人間に知らしめるためのものですから。

文明ができてから、宗教ができるわけです。

宗教というものはそれまでの、信仰や思想をまとめ上げ、体系化するんですよ。
何で体系化するかと言うと、装置だからです。

宗教を必要としているのは為政者なんですよ。民衆が必要としているのは、信仰であり、救いなんですよ。

為政者は宗教を使って民衆を救おうとしているわけではありませんから。支配に都合がいい装置として用いるわけです。

近代国家の誕生から宗教が薄れたのは、宗教という支配装置を用いなくても、よくなったからと言うにすぎません。

縄文時代はそれがまだなかった。
石器時代は、洞窟壁画でも、木の人形でも、宗教ではありません。
祈りであり、呪であります。

煮炊き一つでも、うまく煮えて欲しいという祈りがあったわけです。

縄文時代も晩期になってくると、縄文土器も大人しくなってきます。装飾がなくなってきます。

西日本では、水田が作り出されてきます。
人間が自分の力で自然に手を入れて、改造し、食料を手に入れる時代になりました。

機能が求められる、機能主義の萌芽です。
次第に人間にも機能が求められる。

機能主義の萌芽によって、縄文時代晩期から土器に装飾が消えるわけです。
農耕は、年間のスケジュールを立てて行うものです。
水田というものは、人工的な行為ですから、人工の規則に自然をはめ込むようなことをするようになった。
自然を作り替え、制御下に置くようになったわけです、人間が。

水田は作業が決まっていて、日々、同じことを繰り返しますね。

人間が動物と違い、刺激を求めるようになったのは、この、世界を人間の規則の下に置き、スケジュール通りに動くという行為からでしょう。

それは労働であり、禁止の発生でもありました。

効率を求め、合理的に動くことで、より多くのものが得られますが、脳がその人工的な規則性に堪えられないのか、祭りが、非日常が必要になります。

自然の多様性の中で規則を作っていた人類が、米作りによって時空間も一様化し、人工的な規則の中に生きることになったわけです。

縄文は自然空間での祭りですが、弥生は人工空間の祭りです。

神社の原型も弥生自体に遡ると言われています。

刺激を欲しがるのは、人間くらいですよ。
クジラでも遊ぶらしいですが、刺激と言うほどではありません。

動物は、飼い猫でもそうですが、刺激はストレスになります。

動物にとっての幸せな暮らしは、日々、同じルーチンで暮らすことです。

農耕生活においては、魔術よりも機能が求められたわけです。

土器も丸型丸底という作りやすいものになってきます。
農耕は集団で行った方が効率が良いために、共同体が大きくなり、共同作業が増えます。
狩猟と違い、一つ一つの行為や道具に願いを込めるのではなく、豊穣の祈りは儀礼として、共同体でまとめてより豪華に行うものとなったわけです。

そこから権威というものが生じたわけです。

弥生式土器は個々の土器を飾る必要がなかった。
そのあたりでハレとケ、非日常と日常の意識が分かれ始め、魔術は非日常の物となったんではないでしょうか。
日常はひたすら機能効率を求めるようになる。
これは青銅器ではなく鉄器の利用あたりから始まったと思われます。

作った当時は金色に輝き、鉄に比べればまだ柔らかかった青銅器には魔術を残し、強靭で鈍い銀色に光る鉄器には機能を求めたわけです。

現代、鉄のアクセサリーが販売されていますが、鉄に対する古代からの機能主義へのアンチテーゼを示していませんか。
デザイナーは意図せずに制作したのでありましょうが、意図して作れば、それは現代芸術となるでしょうね。

完全に機能主義が全的勝利を収めるのは第一次大戦後です。
今の資本主義の始まりには機能主義の勝利がありました。

弥生時代に神社の原型が現れましたが、社殿が建つようになるのは、仏教の伝来、お寺が建てられてからです。

立派な伽藍を見て、どうもあまりに自然崇拝過ぎたものを人間にもわかりやすく立派なものにしようと言う考えです。

当時は、山は聖域ですから。俗人は脚も踏み入れません。

山の聖地と人の住む俗界には区切りがあってその結界を越えて、登頂を試みたのが山伏です。

山の神のいる結界の中は、山中他界と言うことで、死霊の世界と思われ、そこに入ると験力があるということになりました。

他界に入り、生き返って、里に戻ることで霊権力が得られるというわけです。
山の神の神通力を得るための登頂ですね。

山の神は祟るわけですから、仏教の加護の下にあって山に入ることができたという話です。

日本では、霊山信仰が最大のベースになります。

自分を空っぽにして、新たな魂、新玉が入るのを待つ、『あらたまり』、
そうして自分が『改まった』となってよみがえると言うことです。

仏教公伝のあとに記紀が作られました。

土器と言う、無から有を作り出すことを知った人類が、物語を作ることを覚え、それが神話につながる。

ごく自然に、自然の中で神を観念していたものが、仏教の体系化や像により、神話を作り出したのではないでしょうか。

一種の焦り、コンプレックスもあったのかもしれません。
自己主張するのは、コンプレックスによるものでしょうから。
仏教の立派さに、示せないものを信仰していたことに焦りだしたのではないでしょうか。
素朴なものだけでは対抗できませんから。勢力として。
立派なものを示すこと自体が、他人の自足していた楽園の生活を破壊するわけです。

その時点で、信仰心が一段階下がりますけどね。

神を見ていた目が、人間を見るようになるわけですから。

神話にしても、神や仏の体系化や序列やはめ込みも、現代の漫画の設定のようでもあります。


中国は広大な平原の真ん中に都を作りました。
大平原での生活を守るには、囲みの中に住むことになります。
街をを城壁で区切って都にしました。
中国の大平原では方角を決めないと、中心が定まりませんから。
北極星をもとに南北の軸を決め、東西を定めたわけです。
大平原では、方角を決めないと、位置がわからななるから、街を円ではなく、四角くかつて、南に向く。

南を正面とする。

中国の乾燥した空気では、金の音も透明で余韻がなくきりっとした締りのある響になると聞きます。

中国語は子音が多くて明確な発音を持っていますね。
原始的な文化ほど母音的な言葉の世界にとどまっており、子音的な要素が少ないと言われます。

聖なる響は清なる音、あらゆる楽器の標準がブロンズで作った金の黄鐘律(おうじきりつ)となるわけです。
最も澄んだ音を出す。
濁は、オーソドックスから外れたものとされました。
独特性というより美意識の持ち方の違いがあります。

雅俗の対立ということが古代中国ではありました.。

雅は、正しいということ。
格を備えた真実。
都会と言う意味ではなく、貴族の目指した文化の理想のことに他なりません。

日本に伝わった中国の文明、文化は、長安からもたらされた漢籍、美術、工芸それらを『みやび』というソフィスティケート【sophisticate】された感覚として受け止める。
その毅然とした世界に仏教的なうつろいが加わって、貴族階級の弱みみたいなものになるのが日本の王朝の特徴となりました。
それが末法思想化する。

オーソドックスなものを雅と言う。
優雅は雅の一種です。

本来、雅は正しいということですから、崩れたりはしないが、そこが日本の貴族の弱いところでして、奈良朝から平安朝にかけての貴族には精神の自由があったともいえます。

オーソドックスと言うことは、リアリズムの達成ではなく、型を保持しようとする意志のことに他なりません。
あはれは、詠嘆や評論ではなく、文学をしていくための美的概念、調子、気配のことです。
京都の精神的風土を端的に語っている。工夫を凝らした料紙の上に和歌を女手で散らしていく感覚、そのあたりに、あはれのトーンがあるといえましょう。
日本の王朝美学には、雅なるもの、中国的な典雅を貫く力がなかったともいえます。

それは、京都の湿気を帯びた気候も影響していたと思われます。
中国は乾燥していますからね。
金の音も変わってきますよ。

飛鳥時代の仏像は、人間の精神を超えた様な表情をしていますが、鎌倉時代に作られた仏像は、力動感に満ちた彫塑ですね。
今から見るとフィギュアの原型にも見えてしまいます。

縄文時代は常識なんてなかったから、バサラだの、破格だの、逸脱だのが、そもそもなかったわけです。

逸脱の必要性がなかった。
逸脱してまでの自己主張と言いますか、自己顕示欲がなかった。
神を見ていますからね。

鎌倉時代のリアリズムによって、仏像が自己表現となり、やがて室町時代の生活の時代へとなってゆきます。

自然が失われ、数寄の時代になる。

そうなると、物や人間の表現の時代になり、神を感じていた感覚は、人間の表現へと移ることになります。

気韻という言葉も、人間を表すものとなる。

平安時代以降の美術を見ていると、それが琳派だろうが、浮世絵だろうが、
もう意匠でしかないですね。
琳派は、古典を意匠にしたわけですが、飛鳥時代、それ以前、縄文などに比べると、人間というか、人類ではなく、ただの一個人が作成しているわけですから、工芸品というか、襖絵でも屏風でも、ただの生活を彩る生活品になってきます。
個人というか、個人の人間の生活に留まって、そこから展開しないように見えます。
縄文人の造形でも飛鳥時代の美術でも、意識がそのものにとどまらず、遙かなものにまで広がっているんですよ。
眼の前の対象がありながら、意識は、そこではなく、超越的なものに向いている。

超越的なものを意識しなくなった人間は、逆に世界が狭まるのではないかと思えるくらいです。

琳派がしたように、平安以降の作品見ても、Tシャツにいいかな、とか、グッズにいいかな、とか思ってしまいますから。
素材ですよ。

作者の視点が人間にだけ向いていて、超越的なものが存在していないからでしょうね。
鎌倉時代の仏像なども、技巧やアイデアを示しています。
浮世絵とかも、桃山文化の絵画も同様で、そこに超越的なものへの憧憬がないですね。
ネットを見て、旅行に行きたくなる感覚と同じではないでしょうか。

室町以降、江戸時代の陶磁器もそうですが、商品なんですよね。
商品だから、噂になってもらって、価値を上げてもらおうとする。

その典型が安土桃山時代の茶器ですよ。

余剰品に付加価値をつけて、生活からも切り離して、価値を加える。

作った人間は芸術的心情で作ったかもしれませんが、所有する人間は、少しでも価値を高めようとする。

江戸は、繁華を好む町人の余剰エネルギーのために消費としての悪所も名所も作らなければならなかったわけです。
これもパンとサーカスの一変種ですかね。

江戸時代までは、着物は、着る人と相談して作っていたらしいですね。
いわばオートクチュールだったわけです。
その人に似合うもの、飾りではなく、実際る似た時の所作まで考えて、帯も含めたトータルコーディネートで作っていた。
生産が機能主義になって、既製服になる。

日本美術は、外来の物を日本向けに作り替える作業の歴史ともいえます。

現代的なセンスで古いもの、伝統的なものを処理する。
形を残すと同時に、今の時代に写し替えていくわけいです。

白をいかに生かすか。
それが日本の色彩感覚の根本にあるともいえます。
それと、紅をいかにうまいこと活かすかということらしいです。

着物は、二色の柄ならば、その二色を活かすような別の色の帯を持ってなくてはならない。
同じ着物でも、出かける場所によって、帯は変えるとか。

もう完全に個人の話ですね。
美と綺麗は別ですよ。

縄文土器は、煮炊きでさえ、祈りが必要だったから、あのような激しいエネルギーを表すかのようなものになったのではないでしょうか。
煮炊きでさえ、カオスにしてしまい、通常とは違う状態にすることで、食べる。
狩猟は祈りが必要なほど、不確定な行為であったから、その延長にある料理も不確定であると考えていて、不確定なものだから、カオス的なもの、非日常的なにすることで、より食い物にありつける確率を上げたんじゃないでしょうか。

弥生時代になと、稲作が主流になります。
稲作は年間の計画を立てて行いますから。
見込まれる収穫量というものがあります。
だから、何事もカオスになってもらっては困る。
そこで、日常使う、土器などにも秩序というか、安定性を求めたのではないでしょうか。
縄文時代まで、狩猟採集の時代までは、食べることが、非日常的行為だったんでしょうね。
食べることが最大の関心であり、唯一重要な行為でもあったわけですから。
それが稲作を開始し、食料を自分たちで作り出すようになってから、食べることが日常の行為の一つになったんでしょう。

石器時代の美術、造形は人が見るためのものではなかったわけです。
飛鳥時代の仏像も、驚いたり、感銘を求める対象ではなく、祈りの対象でした。

美術は時代が下るにつれて、人間が人間のために作った物になっていきます。

人間の計らい、人間の思惟を絶したことを大不思議と言う。

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