【民俗学漫談】スマホを片手に広がる世界で
今も昔もおしゃべりをしたいという気持ちは老若男女変わりはないでしょう。
会話からインターネットを通じてのやり取りに変わっただけですから。
SNSはなくてはならないアプリケーションとなっていますね。
それを見ず知らずの人とできてしまう柔軟性のある人が多くなっています。
あたかもゲームから会話パートだけ独立させたようなものが、ユーザーを引き付けています。
床屋政談と言う言葉がありますが、Twitterなどは、見ていて床屋政談の公開システムのようです。
Twitterは言語の盛り場。解放区。
日常と非日常が入り乱れるその猥雑性と言い、自在性と言い、江戸後期の川柳の隆盛が思い起こされます。
『川柳ほどの事』ならぬ『twitterほどの事』です。
明るい話もシリアスな話も、新聞や言論誌の投書欄にあるような意見もおふざけ系も商品紹介も同じ次元で紹介されるのがワイドショー的に思えます。
井戸端会議も面白いものがあるし、公開されたそれを見る分にはタダではあります。
一昔前は、ネットでのやり取りに対して、それを受け入れる現実のプラットフォームが必要とか言われていたのですが、すでにネット自体が別世界の話ではなく、現実世界のツールになっているようです。
ネットの中で出会い、仲良くなること、それが現実での進展となんら変わりはないものと感じられています。
そうして、またネットで見つけた現実の場所に出かけ、それを再びネットの世界にフィードバックすることで、仲良くなることの確認作業をしているようです。
デジタルネイティブなどという言葉はもう当たり前すぎで使われなくなっているようですが、当たり前のようにインターネットのある世界で育った今の人々は、異世界と現実世界を行き来することに違和感を覚えぬようです。
異世界と現実世界を行き来する
その行き来の媒体は携帯、スマートフォンです。
まさにゲームの世界のようですが、スマホを持つことによって、写真を撮り、映像を取り、SNSで発言し、様々な物事を比べ、知らなかったことをネットで知るようになり、その結果、皆が皆プロモーターであり、記者であり、カメラマンであり、また少しでも賢い消費者であろうとし、アドバイザーになっています。
常に情報交換会をしているようなもので、その情報処理能力の高さは、やはり若さからくる脳の柔軟性の表れでしょうか。
カメラを持つことで、誰しもがカメラマン気分になる。
どういうことかというと、日常のあらゆる場面で、目の前で起きているあらゆることをカメラに収めるかどうかの判断をしているということです。
なんであれ、写真に収めようとする頭になっているということです。
たとえば、公の場にいるときも、何かしら、人であっても、カメラに収めようとする。カメラを持つことで、持たなかった時よりも、距離ができる。
距離を作ることにより、自分はより安全な場所、世界から隔離されていながら、同時にいつでも世界にアクセスできるという、そういう王様でいられるような特別な立場になろうとしている、カメラはインターネットもそうですが、それを助長する器械となる。
インターネットは、誰でも、同時に、同じ情報を得られます。
テレビやラジオと違うのは、時間の制約がないということですが、同質の情報が流され、それを個々のほとんど別々の場にいる人間が同時に受け取るという点では同じです。
むしろ、検索が恣意的にコントロールされやすい点においては、テレビ以上に同質化が進むものかもしれません。
カメラですが、対象をより客観的に見る、というか、対象から離れてしまう。
そうなると、本来、手を差し伸べるべき場面でさえ、カメラに収めてしまう。
いわば、皆が皆、戦場カメラマンのようになっている。SNSを通じて、ピューリッツァー賞ならぬ、バズることをもくろんでいるのです。
個性を発揮し、思い出を残すためのスマートフォンのカメラが、どこか、部外者、異邦人の群れのような社会を作ろうとしているのではないでしょうか。
現実はメディアを通して、次々とイメージとなり、イメージは多様性を抱えられずに、より一般化してゆきます。
このような時代では、マイナーやポピュラーでない物を見ているほうが疲れない。
互いに提示した情報を互いに受け取って、自分が次にする参考にする。
自分のような気の合う人と食べれば何でもおいしくいただけるような人間にとっては、たまたま入った店が上手かったらうれしいというのはありますが、自分でインターネットで探すことはあまりしません。
それが作業に感じられるのは、自分が事務的なことが苦手な人間だからでしょうか。
人は今も昔も、何らかの経験をしたら人に話したくなるものです。
誰かと話せば、相手が自分のことを知っている度合いに応じて、すこし背伸びして話すものです。
これが、インターネットを通じてなら、普通は相手を自分のプライベートに入れることを考えないから、余計な背伸びする必要もない。優しい嘘で固めれば済みます。
江戸時代、武士の中でも様々な階級がありましたが、実は、まったく同等の相手というものはいなかったそうです。
同じ階級の武士の中でも、何かしらの差があったらしいです。
思いますに、それは武士同士が、画一化されてゆく時代の中で、自我を保つために自ら望み始めたことではないでしょうか。
いい人には嫉妬しない。
活躍してても、恵まれていても。
どうやら、そこに見るべき答えがあるようです。
価値の一様化
世界中の人間がスマートフォンを持っている。
ということは、世界中の人間が同じ価値観、同じ文化を持つということです。
欲望の手段を同じくしている。
欲望の手段を同じくするということは、考え方も価値観も均一になるということ。
喩え欲望の目的が同じとしても、手法が変われは、独自のものとなる。
様々な芸術もそうだし、かつての異なる文化、文明がそうであったように。
目的はこの世の快適さ、喜び、繁栄だろう。
手段が異なれば、文化も異なる。
その場合、争いは少なくなるはずだが、なくならないのは、その均一化された世界、広まった価値観が松がっているということです。
その同じ価値観や文化を持った世界を『見物』するということは日本の観光地や遊園地で遊ぶのと変わりない。
単により危険か、より安全かになっているだけ。
『タイパ』という考え方がどこから出てきたのか
かつては辞書を引くことで行っていたことを検索エンジンで賄うようになりました。
SNSは、手軽にコミュニケーション手段を与えてくれます。
こうして、日常的にインターネットを使用していると、人間の脳は、それに最適化し、脳の他の部分もそれに影響されていきます。
人間は、コミュニケーションをしたくて仕方がない生き物なのですが、インターネットは、人類が夢見てきた瞬時の相互接続を可能にしました。
テキストや絵、映像によるコンテンツによって、コミュニケーションをしているのですが、そこにあるのは、表面上のやり取りになりがちです。
デジタル広告もそうですね。大抵は、実際のお店の存在もなしに物やサービスを示しています。
インターネットは、かつては、オープンスペースでした。
誰でも参加でき、誰でもコミュニケーションや知識の交換ができる場で、そこは、商売と無縁というわけではありませんでしたが、今の様に、広告が至るところに張り付けられ、広告収入のためにサイトを運営有用な人々もあまりいませんでした。
広告のないブログやサイトが、有用な情報を示したり、面白いコンテンツを示してくれていました。
検索エンジンも今は、広告による収益のためのサービスのようになりましたね。
今や、インターネットというオープンスペースに商業主義がはびこり、公開されていないアルゴリズムによって、SNSでも検索結果でも表示されるようになってしまいました。
その世界は、収益に適したコンテンツ、投稿、ブログなどから、また別のコンテンツにユーザーの衝動を突き動かすように作られていて、一つのアプリやサーピースから、外部のサイトへ出さないようにしています。
アプリは、オープンではなく、クローズですが、「アテンションエコノミー(関心経済)」によって、最近、その傾向が顕著になってきています。
この次々とコンテンツを移る様にユーザーを突き動かすやり方が、ネット以外にも浸透し、映画でもイベントでも、間というものがなく、次々と消費者の関心を引き付け続ける様な仕組みになってきています。
インターネット以外の場でも、ネットのビジネスモデルが浸透し、消費者が、常に刺激を求め、また自分の生活においても、効率や細かい数字を気に掛けるようになりました。
常に関心を自分に引き寄せる、ということが商売のやり方としてあり、毎日スマートフォンでそれにさらされているうちに、見ている方までが、効率や数字を気にするようになったのだと思います。
今、Youtubeで『○○チャンネル』と言う感じで、一人の人が放送局のような役割をしていますが、かつてのニコニコ動画やYoutubeは、もっと自由な感じで、各自が各々作ったものを公開していくと言う感じで、それが全体の雰囲気を作っていたものでした。
もちろん、一人の個人が次々と作品を出していたのですが、今ほど個別に一人の人間が出てくるというより、たまたまコンテンツを見つけて楽しむという様な見方をしていたと思います。
これが、他のSNS、TikTokやInstagramにも広がり、一人の人間を多くのフォロワーが見るというような、相互コミュニケーションというよりは、放送のようになってきました。
YoutubeもGoogleが買収する前、InstagramもFacebookが買収する前の方が、面白かった気はします。
今のネットは、しょせんは、自分で本を読めは分かるし、テレビを見れは済むようなものばかりになってきてはいないでしょうか。
常に関心を引き付け、その人に興味のありそうなものを出し続ける。
見る方は、それを面白いと思って見続ける。
検索エンジンで自分で調べなくなりました。
かつては、ワープロで字を書かなくなりました。
今、知りたいことをAIが教えてくれるようになりました。
もう自分で調べて、まとめあげるという行為をしなくて済むようになりつつあります。
これは編集能力が衰えるということですが、この能力は、脳の前頭前野で行っているわけですが、この部分は、人間と動物を区別している部分でして、この部位が、複雑な関係性や空間把握能力を保持していると言われています。
ここが衰えてくると、自分で物事を編集する、つまりは組み立て、まとめあげ、伝える能力が減退するということにほかなりません。
まとめ上げられたものばかり見て、それだけでそれ以上の考えを止めてしまうということになります。
インターネットは、コミュニケーションを飛躍的に発展させました。
しかし、そのあまりに効率的な情報を示してくるやり方により、今度は、人間の脳が、楽になりすぎ、数万年前に発達した、前頭前野の衰えにより、人間個人間のコミュニケーションを能力が衰えることにつながる様にならないとも限りません。
会話は、エディティングなのですよ。
相手の言葉を受けとり、自分の中にあるもので編集し、また相手に返す。
雑談が上手な人は、このエディティング能力を鍛えてきたのです。
何かと何かをつなげるのが編集ですから。
AIで絵を描いたり、音楽を作ったり、動画を作ったり、趣味でやる分にはいいでしょうが、なんでもかんでも、AIに答えを聞くようになってくると、前頭前野に影響が出てくるのではないでしょうか。
知識というものは、ある種、ただ得るだけで放っておくという部分もあります。
それがまたある時に人と話したり、本を読んだりした時につながるわけですよ。
最近は、ネットの記事やブログもAIに書かせているライターが少なくないようですが、それは情報を探している側に、何のメリットがあるんでしょうか。
広告収入目的ですでにある情報をAIにまとめさせているわけですから、そのサイトに何の価値があるんでしょうか。
かつての個人ブログは、好事家がしていたものですから、わかりやすく的確で、まさしく『タイパ』が良かったものです。
検束エンジンで広告を出さないものがありますが、さらに一歩進めて、広告を貼り付けているサイトを検索結果に出さないというようなものは作れないでしょうか。
冷静に考えて、広告だらけの辞書なんて手元に置きたくないですよ。
かつての個人ブログ、Yahooジオシティーズがなくなって、日本におけるネットの情報の質が下がったと思うのは私だけでしょうか。
フラッシュの廃止とともに、一気に、日本のネットにおける情報が平板化した時期でしたね。
その平板化したものを見続けているわけですから、日本人としてのアイデンティティーは薄れ、平板で均質されたもの、数勘定に走ることになるわけです。
『マウント合戦』以外に、アイデンティティーがわからなくなるという混乱をきたすわけです。
外国企業は商売がしやすくなったでしょうね。
話は少しずれますが、テック企業には、元々庶民の味方のようななりで登場してきたにもかかわらず、巨大企業となった暁に、庶民を相手にせず、企業や商売を優先するような様変わりを見せますね。
お金の前には、IT企業の会社従業員もポリシーと言いますか、国語で言えば信念ですね、それが簡単に揺らいでしまうのでしょうね。
私は信念が揺らぐほどの収入を手にしたことがありませんから、IT企業の会社従業員の脳に何が起きているのか詳(つまび)らかにはできかねますが。
私の感覚ですと、インターネットはオープンな場だったわけですが、ネットが商売がやりやすいのでしようね、検索でも情報のまとめでも、商いの場になってしまいました。
オープンな場であるはずのものが、限られた商売や、売れているもの、関心経済に乗ったようなものばかり出てくる。
ネットをすればするほど、テック企業のサービスを使えば使うほど、閉ざされた世界になるような気がしてくる。
これは、事務仕事におけるコンピュータの使用も同じだと思います。
オープンな世界に生きる人間が、システムを覚えて、それに組み込まれる。
かつて、『企業の歯車』なんて言い方がありましたが、今や、自分が所属もしていない企業の歯車となってはいませんか。
どうして、日本人のほとんどがマイクロソフトやグーグルの製品の使い方を身に着けてしまったのでしょうか。
『タダだから』、『効率が上がるから』、『儲けられるから』
『生産性が上がらない』というような話がありますが、外国の企業の歯車になっていたら、そりゃ上がらないと思いますよ。
これは、仕事だけでなく、娯楽サービスでも同じでしょう。
若い世代の行き過ぎた『タイパ』が批判されがちですが、そもそも、コンピュータソフトが『タイパ』を要求していますから。
そんなものを使っていたら、頭が『タイパ』になるに決まっています。
いい年した大人がプライベートでも『コスパ』など言って物事を決めているのは、コンピュータシステムに脳が影響された部分も少なからずあるかと思われます。
商売だらけのインターネットやSNSも、そもそも『コスパ』、『タイパ』で運営されている商売なのですから、毎日見ていたら、脳が影響されてしまうわけです。
『デザインの時代じゃない』
言語は現実の世界をかたちづくります。
テレビも画面狭しと文字だらけですが、それも技術のなせるわざです。
もう一昔前か、もっと前でしょうか。
電車に乗っていると、近くで話していた学生がそう言う。
デザイン系の学生に思えましたが、その言葉だけを今でも覚えています。
たびたびその言葉を考え続けてきましたが、いまだにその言葉がなにを意味していたのか、その答えを知らずにいます。
自分にはむしろデザインが盛んになっているように見えます。