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お手紙は私が生きてきた証

職場の同期の娘さんからお手紙もらった。

お熱が出ていると聞いたので、何もできないけれど少しでも気持ちが上向きになればと、ちいかわのいちごラムネをプレゼントしたら喜んでもらえたみたいで
「お手紙書くー!!」
と張り切って書いてくれたようだ。

小さい子のお手紙は純粋さがダイレクトに伝わってくる。
頑張って一生懸命習いたての文字や絵を書いてくれたこと、気持ちを伝えようとしてくれていることが嬉しくてたまらない。

お手紙は書くのも、もらうのもどちらも好きだ。
書くことは、相手に読んでもらえる楽しみにわくわくする。
文字を手書きすることで夢中になれるし、相手におしゃべりを聞いてもらえているような気持ちになれる。

もらうのはさらに好きかもしれない。
お手紙は、ちょうだい!と言ってもらえるものではないし、書く労力、時間、何の便箋を使おうか、どのペンで書こうか、どんな内容にしようか、そのすべてが私へのプレゼントであり、何より私に気持ちを伝えようとしていてくれるそのことがとても嬉しい。

もしかしたら、お花やケーキやプレゼントをもらうより気持ちがダイレクトに伝わる分、お手紙をもらうことが一番うれしいと感じるかもしれない。

読むときも、その人の文字から伝わるものがある。
内容ももちろんだけれど、文字が綺麗かというよりも、丁寧に書いているか、適当に書いているかは文字だけでかなりわかる。
人それぞれ文字に個性が出るのもおもしろい。

私は小さい頃からお手紙を書くことが好きな子だった。
友達とのお手紙交換はもちろん、県外の子と文通もしていたし交換日記を3冊かけもちしていたこともある。

通っていた小学校には、中庭に本物と見間違うような本格的なポストがあり、学年とクラスと名前さえ書けば、児童会の当番の人が郵便屋さんになって届けてくれるというシステムがあった。
それを使って他学年の人はもちろん、同じクラスの手渡しできる相手にもわざわざポストを使って送ることを 楽しんでいた。

物にあまり執着がないので、今使ってないもの、いらないと思えば割とすぐ処分してしまえるのだけれど、子供の頃から今までにもらったお手紙、メモ、年賀状はすべてもれなく保管してある。
それ位、私にとって宝物なのだ。

頻繁に読み返すわけではないけれど、たまに読むとその頃の想いだったり、その子との関係性だったり、こんなことがあったなとか、その時のことが鮮明に蘇えり追体験できる切符のようなものだと感じる。

何より相手が私の為に時間をかけて書いてくれた気持ちが嬉しいので、それらを大切に取ってあるのだ。

これだけは捨てられないというよりか捨てる気なんてさらさらない。
私にとって核のようなお守りのような、今まで生きてきて出会った人達が私を見守って育ててくれて、今はもう会えない人もいて、私がその時々で助けてもらったり、励ましてもらったり、喜びを分けてもらったり、出会った方々に支えてもらってここまで生きてきたという証なんだと思う。

大げさかもしれないけれど、その時その人から、手紙という気持ちのかたまりを分けてもらって乗り越えることができたことは多々あったし、素直な気持ちを伝えてもらって涙することもあったし、言葉ももちろん嬉しいけれど、手紙で褒めてもらえると形に残るし、うわべの言葉ではないことが伝わるので何倍もうれしい。

私が集めて大切にしている手紙たちはその時その時で出会った人達との繁がりの結晶なのだ。


私には夢がある。晩年おばあさんになって最期にお手紙たちをすべて読み返して、
「あぁ、私はこんな温かくて優しくて素敵な方々に出会えて、囲まれて幸せな人生だったな」
とひたるのだ。

人生の最期にお手紙の力で自分の人生を全肯定できたなら、それほど幸せなことはないのではと想像してしまうような未来を楽しみにするアイテムにもなっている。


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