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短編 | 「ヒガンの子」(第1世代)

 それは理想の姿だった。
 人類が月に移住してから千年が経過し、急速に発展した科学技術は人を模した人工生命体に自我を持たせるに至り、複雑な精神世界の構築が可能になった彼らは人と平等の権利を獲得した。
 人工生命体は人間生活に溶け込み、見かけだけでは人との区別は困難だった。彼らの豊かな感情と社会生活への高い適応力を考慮すれば、人と区別する必然性さえないように思われた。
 行政的、医学的な要請から、従来の人間は『ヒト』、人工生命体は『ヒガン』と呼ばれた。



 お母さんは感情の起伏が激しい人でした。普段は大人しくて優しくて、わたしのことを深く愛してくれる素敵な女性です。でも、お父さんのこととなると、その表情は風に煽られた水面のように一瞬たりとも同じ様相を見せず、笑ったり怒ったり悲しんだり喜んだりと、とても忙しく感情を乱高下させました。

 ある日わたしが学校から帰ってくると、お母さんが電話で誰かを激しく罵っていました。あまりに興奮していて、わたしはお母さんの言っていることが半分も聞き取れませんでしたが、言葉の断片をつなぎ合わせると、電話の相手はお父さんで、お母さんはお父さんの浮気を糾弾していることが分かりました。
 お父さんはお母さんのことを愛しています。それは一緒に住んでいるわたしが肌で感じ取ることができる事実です。だから、お父さんが浮気しているなんてありえません。

「お母さんは壊れてしまった」

 帰宅したお父さんはため息をつきながらそうわたしに言いました。いえ、あれはたぶん独り言だったのでしょう。
 
「壊れたら直せばいいのに」

 わたしの言葉にお父さんは何の反応も示しませんでしたが、次の日、お父さんはお母さんを病院へ連れていきました。
 病院での治療も虚しく、お母さんの症状は悪くなる一方で、お母さんは部屋に引きこもるようになりました。
 それから数週間後に悲劇は起きました。

 ある晩、わたしがお父さんと二人で食事をしていると、痩せこけたお母さんが背後から現れて、お父さんを包丁で刺したのです。お父さんは背中に包丁が刺さったままお母さんを押さえつけ、わたしに警察を呼ぶように言いました。わたしは即座に警察に連絡し、お母さんは連行され、お父さんは救急車で運ばれました。

 お父さんは次の日に家に帰ってきましたが、お母さんは二度と家に戻ってきませんでした。わたしたちの網膜レンズハードに残っていた記憶データを解析した警察が、お母さんの犯行を確認して即時有罪が確定したからです。どんな罪状で裁かれたかについては、お父さんから聞くことはできませんでした。

 ヒガンは決して犯罪を犯しません。なぜならそのように設計されているからです。お母さんがなぜ罪を犯したのか。怒り、妬み、憎しみ、すれ違い、思い違い。さまざまな要因が考えられますが、結局のところ、お母さんがヒトだったからという一点に集約されるのだと思います。
 お父さんとわたしには、お母さんの気持ちを本当の意味で理解することができないのかもしれません。殺めたいと思うほどの深い憎しみ。それは深い愛情の裏返しでもあり、その深い感情こそが、わたしたちヒガンには与えられなかったヒトがヒトたる所以であるからです。



第2世代へつづく


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