作ることよりも難しいこと
編み物をしていることを、人に話すことはほとんどない。別に話したくないと言うことでもないんだけど、そもそも、会話の中で編み物の話題になることがない。坊主頭の私は冬場のニット帽が必需品で、スーパーや喫茶店などでたまーにおばあちゃんに「それ、手編みですか?」なんて声をかけられる。それはそれでちょっと嬉しかったりするんだけど。
編み物をしていることを誰かに話したとき、特に相手が編み物の経験が無い場合は、たいてい「器用ですねえ」と言われるが、私自身は、自分が器用だと思ったことはないし、作ったモノだって別に特別上手に出来ている訳でもない。たぶん、編み物の具体的な作業が想像できないから、編み物をする人が何か特別な技で作っているものと思い込んでいるのかもしれない。私の作るモノは料理で言えばオニギリみたいなものだから、器用ですねって言われるとちょっと気恥ずかしくなる。
私の編み物は、趣味と言うよりも実用に近い。編み物を始めたのも、スキーをするときにかぶるためのニット帽を作り始めたことがきっかけ。かぎ針専門で、編み目も数種類の基本的な編み方しかできない。作るモノも、帽子か手袋(ミトン)、デジカメケースなどの実用小物に限られている。最近は自分用の他に、家族用の帽子を編むくらい。家族以外には、ごく親しい友人に頼まれて編んだことがあるだけ。頼まれれば、作る。自分も含めて、必要がなければ作らないのが基本スタンスだ。なので、何かを作ろうとしたときは、オーダーがある。どんなモノを、どんな色の糸で、どんな大きさで、どんな形、編み目で編むか。それが決まってしまえば、あとは単純作業あるのみ。だから、作るのはそれほど難しくない。
作ることよりも難しいことは、作ったモノを処分することだ。
子どもたちには、小さいときから帽子や手袋をたくさん編んだ。小さいときは、親が指定したものをあまり抵抗なく身に着けてくれるので、それが嬉しくてたくさん作った。でも、子どもたちは成長していくにつれて、サイズが合わなくなったり、好みが出て来て手編みのモノを身に着けなくなる。最近、子どもたちの小さい頃の衣類を整理、処分する機会があった。市販のモノはあまり迷うことなく捨てる判断ができたけど、自分で編んだ小さな帽子や手袋は捨てることができなかった。私自身はそれほどモノに執着しない方だと思っていたのだけれど、編み物だけは他のモノとはちょっと違っていた。小さな帽子や手袋を見ると、それを身に着けてニッコリと笑う子どもたちの顔が脳裏に浮かんでしまうのだ。
モノは永遠ではない。だから、それに執着することは意味のないことなのかもしれない。子どもたちは成長し、家族の関係も変化する。それを受け入れなければならない。でも、モノ=それから想起される記憶は、過去に私たちが存在したことの証だし、それをキレイサッパリ捨て去ることは不可能だ。
幸い、編み物はよほど頑丈に編まない限り、解いて糸にすることができる。だから、捨てられなかった編み物たちは、折を見て解き、糸にしようと思っている。それをまた何かの形に仕上げること。それが、過去に執着せず、今、この瞬間を大切にするという、より良い心の在り方に繋がるんじゃないかと思う。
作るときに、捨てることまで考えられるほど私は賢くない。だから、何かを捨てるときには、それが自分にとってどんなモノだったのかをキチッと考えてから捨てたいと思う。もちろん、それがどんな形であれ再利用できるようなモノならば、今の自分のために有効に使ってあげれられれば良いと思う。
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以上、久しぶりの企画参加のために書いたnoteでした。
企画されたくまさん、ぼたんさん、企画を紹介いただいたあやしもさん、素敵な企画に参加させていただく機会を作ってくださったことに感謝申し上げます。
これから寒い季節を迎えます。みなさまも暖かな編み物たちを身に着けて、風などひかぬようご自愛ください。
私も久しぶりに編み物をして、寒い時期を乗り切りたいと思います。
おわり
サポートいただけたら、デスクワーク、子守、加齢で傷んできた腰の鍼灸治療費にあてたいと思います。