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相手の気持ちがわからない

自分の欠点はたくさんあげられるけど、ここ数年自分でも不安になってしまう欠点がある。
わたしは人の気持ちがわからないんじゃないか?
人の気持ちに寄り添う優しさが欠落しているのではないか?

転職活動で「退職理由」をどう伝えるか調べていたときに、いろんな方の理由をみた。就労環境で体調を崩してしまった、人間関係で精神的に病んでしまった、上司や先輩から理不尽なことを言われついていけなかった…
どの言葉も「うーん?」と思ってしまう。
どの言葉を見ても、「それは受け取り方の問題ではないだろうか」「その考え方のままだと、どこにいっても無理だよ」「理由にならない気がする」と思い、内容がただの愚痴や自分を擁護するための言葉にしか聞こえなくなってしまった。

精神的な症状に病名がつくようになったことに対して、もやもやすることもある。
最近うつ病や統合失調症、パニック障害、不安障害、発達障害やHPSなど、今まで「こころの病気」とあやふやにまとめられていた症状にきちんと病名がついてきた。
本人に自覚がなく苦しんでいる方に病名がつくことで、同じような人がいるんだと気付けたり、治すしたり癒す方法がわかり良い方向へ進むきっかけになる事はわかる。そして本人以外の人に、本人しかわからない辛い症状を明確に伝えることができて、「やる気が足りないからだ」とか「考えすぎじゃないか」とかそういった精神論でどうにかなることではないと示すことができる。
それでも、働くことに意欲がない人が「病名をたてに、自分の欲求や嫌いなことを避けるようになるんじゃないか」という懸念の気持ちがある。
私が仕事に対する考え方が古いことや、身近にそういった人がいて実際に経験したことを忘れられないことも一因だと思う。
でも一番の要因は、わたしが人の痛みを理解できないからではないか?という不安が頭をかすめる。どれもこれも本人にしたら辛かった出来事だし、どの程度から耐えられないことなのか人によって違う。
それでも相手を思いやれる人は、私みたい腹黒い考え方はしないんじゃないかと思う。疑いの目を向けている時点で、ドラマや映画の中の悪役みたいな嫌な気分になる。相手がどんなに辛かったか、何かしてあげられたんじゃないか、今からしてあげられることはなんだろうか、そんな風に考えられるのが普通なのではないか。
しかも私は先に例を挙げた「人間関係での退職」「就労環境での退職」「精神的な病気」どれも経験がある。なのに腹黒く考えてしまっている。

「人間関係での退職」「就労環境での退職」
前職は上司の言葉が法律になる職場で、体力的にも精神的にも疲れてしまったことがある。耐えきれず突然こなくなる同僚の気持ちもよくわかった。同僚を責めることもできない。
人が入ってはいなくなる状況で、さらに追い込まれ一時感情のスイッチを切っていたこともある。そのせいで同僚との関係は冷えて切ってしまったと思う。プライベートな会話やちょっとした雑談をする時間もなかったし、しようとすら思わなくなっていた。
たんたんと仕事をこなす日々。対価としてお金は得られたが、働くことで得られたものは他になかったように思う。
最終的にわたしは円満な形で退職できたが、理由は完全に上司(経営者)への不信感。従業員をコマのようにしか考えていないし、そもそも人間として尊敬できる方ではなかった(わがまま言い放題、上司の機嫌によって職場の1日が変わる(みんなビクビク顔色を伺っていた)、トップだから何を言ってもいいと人への思いやりが欠如していた)。

「精神的な病気」
そして以前、精神科に通院したこともある。
そのときは気持ちがいっぱいいっぱいで、病名を理由に大きな選択をしたことがある。今思えば人生の中での大きな選択だったように思う。
後悔はしていない。生きていればたくさん選択があって、人生の分岐点がある。いま私が生きてきた道が自分の人生なんだなと思うだけ。
それでも「逃げた」のかもしれないという気持ちはひっそりと影を落としている。正直なわたしの拭えない気持ちだ。

そういった経験を経ていても、わたしは同じような立場の人の気持ちに寄り添えていない。目の前にいる、自分と関わりのある人間にすら寄り添えないこともあるのだから、見ず知らずの人の気持ちにはさらに寄り添えないと思う。冷たい人間なのかもしれない。

自らの体験を書いていても「愚痴ってばかりだな。」と自分に冷たい目線を送ってしまう「じゃあ早く辞めればよかったのに」と。でも当事者の私もいて、「言葉にするとただの愚痴になってしまうが、現状はもっとひどかったし誰もいなくなるわけにもいかなかった。仕事に責任を持っていたからこそポイと投げる事はできなかったし去る時に後を濁したくなかった。」と思っている。
でも書いているうちにまた冷たい私が出てきて「何を優先するか選択するか自分次第。自分で選んで続けていたのだから愚痴をいうのは間違いじゃ?」と言ってくる。この繰り替えし。私はなにをしたいんだろう。自分が可愛くて、悲劇のヒロイン気分を味わいたいだけなのか。それとも頑張っている自分を褒めてほしいのか。どちらにしろ面倒くさい人間だと思う。
わたしは常に自分が中心で、自分のことしか考えられない、精神年齢が幼いが幼い人の良いところである素直さや柔軟さがなくなった面倒な人間なのかもしれない。

先日noteの投稿でどきっとした言葉があった。

「自分の痛みだけを見て他者の痛みを見ない」
わたしが自分でも不思議だった気持ちの正体をズバッと言葉で表している。その通りだ。
そして、「筋書き通りでなければ気が済まない」「他人を自分の思い通りにしたい」というのもぼんやりと心当たりがある。そうだと自分では断言できないが、そうだったら楽なのにと思うことがある。
よく「完璧主義にならなくてもいい」と周りから言われるが、仕事に根を詰めすぎることを言っているのではなくて、このことを指摘していたのだろうか。自分のことながら自分が見えていなかった。
「メンタルが不安定な人」という言葉もまさしく自分のことだ。いつも人のことを気にするような、気にせず自分の意見で突っ走るような変なことをするし、そのくせ後でひとしきり後悔して気持ちが沈む。でも後悔を生かせず同じことを繰り返している。

今までは職場の環境のせいにしていた。
余裕がなくなるくらい、仕事も忙しいしメンタルも削られているからと。
でもそれは言い訳で、忙しい時や焦った時ほど自分の「素」が出てくる。結局はわたしはこういう人間だったのだ。
悲しく情けないけれど事実。気づいたのだから、まだよかったのかもしれない。
「素」を隠すのではなく、良い方向に変えていけるように、自分を好きになれるようになりたい。

「私はひとの気持ちがわからない」で片付けず、どう思っているのかなと考えること、うまくいかなかった時はどうすればよかったかなと考えて改善できるようにしよう。相手の気持ちが100%わかるわけはない。でも少しでもわかろうと理解を示すようにしよう。

以前のわたしだったら、なんだか偽善者ぶっていると思ったかもしれいない。
でもきちんと整理していくと、結局たどりつくのはそこだ。
ひとりで生きていくことはできないし、気持ち良く生きるためには自分のしてほしいことを相手にして、お互い気持ち良く過ごせるように努力は必要なのだ。
いつか考えなくても自然とこうなれるように、今から少しずつ変えていこう。



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