消えない別れ
23歳の私が体験した、消えない別れ。
本記事は2010年05月27日にmixiにアップしたものの再録です。
またこの季節がきた。
夏に手が届きそうなこの時期になると、必ず聞く音楽がある。(まあ通年聴いてるんだけど…)
ニルヴァーナ。
ニルヴァーナを聞くと、いつもある人の少し寂しげな笑顔が心に蘇ってくる。
眼鏡越しの笑顔はいつでもとても優しくて、4歳年上のその人に、私は他の誰よりも…多分親や恋人よりも信頼を寄せていた。
私に必要な数々の事を教えてくれて、私が欲した殆ど全てを与えてくれた。
全てを持っているように見えたその人に、私が与えられる事は本当に些細な事ばかりで、何をしたら喜んでもらえるか悩み、よく訊いたりもした
その人は、私によく言った。
「僕の事なんか考えなくていいんだ。君が頑張っている、楽しんでいる、幸せにしている事が、僕にとって嬉しいんだよ。」
出会ってから何年も過ぎたある初夏の日に、彼の仕事がオフになってアメリカから帰国した数日間を、私の実家で過ごしていた。
「おそらく、今回が最後の帰国になるから、遊べるのはこれが最後だね。」
そういう冗談はヤメテよね~って笑うと、笑顔で返してくれた…それはまるで、触れない蜃気楼みたいな、不確かな笑顔…。
彼が再度渡米する為に、帰る事になっていた日。
私が昼までの仕事を終えて家に戻ると、とても大きな音量で、聴いたこともない洋楽が鳴っている。
彼はソファーに腰掛けて、うつむいたまま…まるで神に祈るような恰好をしている。
ただいま、と声をかけると、お疲れ様、と顔をあげた。目があった瞬間のその表情は、うまく言葉にできない。ただ、光の届かない海の底深く沈んだ貝殻みたいな、寂しい笑顔だ。
「音、大きくてごめんね。この曲、好きなんだ。怖い事も不安も全部、音で消してくれる。」
―ニルヴァーナっていうんだよ。
そう言って薄く笑った彼の目には、多分、太陽の光を浴びた景色も、風の色も、そして私も、映っていない。生きているもの全ての情報を、自分の中に入れないような眼差し。
私は急に、足元が崩れるような不安に襲われて、ただ、広がったりより合わさったりする音たちにすがるように、身を固くしたままぎこちなく呼吸をした。
遅い昼食を済ませ、私は車で彼を甲府駅まで送っていく。
昼下がりの構内は混雑も落ち着いて、平和のお手本のような和やかな空間だ。
「じゃあ、行くね。」
切符を手に振り返った笑顔は、初夏の陽気にとてもよく似合う活きた笑顔で、その清々しさに私の不安な気持ちは吹き飛ばされるようだ。さっきまでの寄る辺ない表情とは、どこかでお別れしたのか、うまく仕舞い込んで鍵をしたのか…。
またね、と言った私の言葉には答えず、目を逸らさないまま少しの沈黙をおいてゆっくりと口を開いた。
「あのね、人と人とは、一期一会だから。」
意図が判らずきょとんとしている私に、柔らかく続ける。
「これから先、君はたくさんの人と出会って、別れていくんだよ。でも、その一人一人との出会いには、必ず意味があるから。必ず、君の力になるから。」
ウン、と頷くけど、本当の所はよくわからない。当たり前の事のような気もするけど、彼の声は彼の奥の奥、温かい命の芯の部分から、響いてくる何か大切な呪文のようで。ただ、ウン、としか言えなかった。
…実のところあと一言でも口を開くと、うっかり泣き出してしまいそうだから、少し口を尖らせてうつむいて耐えた。
うつむいていた私の目に、差し出された彼の右手が映った。
少し驚いて顔をあげると、握手、と彼が笑った。
そういえば数える程しか触った事がない彼の手は、握ってみると思った程に大きくはなくて、急に等身大の人間だったと気付く。
「僕は、君に出逢えて、良かった。その笑顔と、頑張る姿に、いつも励まされてたんだよ。」
いやそんな何もとかゴニョゴニョ口ごもる私をよそに、ぎゅっと握る手に力をこめて続ける。
「今まで、本当にありがとう。」
その一言は周囲の景色からも時間からもはっきりと切り取られて、私の心に直接、響いた。
それは、いつも、いつでも彼が見せていた笑顔そのものの言葉。
そして、今は、最後の別れの台詞。
彼は、生まれつき心臓を患っていた。
子供の頃、20歳までは生きられないと言われていたけれど、もう大分オーバーしてる。得した分、楽しい事たくさんやるんだよ、そう言って笑っていた。
今回の来訪の時には、もうかなり状態は悪くなっていた。
弱い素振りは見せなかったけど、薬は手放せず、暗い場所では目も殆ど見えないらしい。
だから、さよならって言葉が、怖かった。
私は、感謝と惜別とワガママと不甲斐なさと、色々な感情がない交ぜになって、顔をくしゃくしゃにして、手を強く握り締めたまま泣きだした。
最後じゃないよ、また会うよ、メールもするよ、写真送るよ、国際電話だってやってみるよ、だから、だから、だから…!
涙も鼻水も色々出て、もうどうにも止められない。
笑っていってらっしゃいって言おうと思ってたのに……
「あ~あ~、泣かないの、笑って行こうと思ってたのに…僕まで泣いちゃうでしょう…」
そう言って、彼は私の頭を抱きしめた。背中を優しくポン、ポンとたたくので、私はうぐえぇと嗚咽しながら、しがみついた。行っちゃダメだ。消えちゃ、ダメだ…。
電車の時間が近い。
私はしぶしぶ離れて、まだくしゃくしゃの顔のまま、鼻をかんだ。彼のシャツにつけてしまった鼻水も、一応拭いた…。
鼻の頭を赤くして、お互い改めて握手をした
「じゃあ」
そう言って笑った、眼鏡の奥の瞳は、音楽の渦に身を投じていた時のように苦しんでいなかった。いつも以上に強く、優しかった。
改札で見送った。
それが、あの人を見た最後になった。
一期一会。
私はちゃんと大切にできているかな。
出会えた人からもらった喜びを、少しでも返せているかな。
私と出逢えて良かったと、言ってくれたあの人に、恥じない生き方が出来ているかな。
ニルヴァーナを聴きながら、いつも思う。
私はあの人に、もっと出来る事があったはずだ…。でも、世界中どこを探しても、もう見つからない。
だからその分…私の周りにいる大切な人に、幸せになってもらおう。
あの人はもういないけど、受け継いだ幸せがほんの少しずつ伝わって、世界のどこかに生きている。
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