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「勝手にスポーツ大臣」13 小林信也 審判不要論!?
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審判はいない方が、スポーツマンシップが育つ
今日の提言は一部から猛反発を受けそうな気がする。とくに審判に人生をかけて来た方々にはずいぶん失礼な話だと思うが、あえて書かせていただく。
僕はずっと、スポーツマンシップが失われた大きな要因は「レフリー(審判)の存在」ではないかと感じている。
野球では「審判は絶対」と言われ、選手も監督も服従を義務づけられている。プロ野球ではビデオ判定が導入され、少し審判の威厳や絶対性が変わっているが、それでも「審判が選手より監督より偉い」という上下関係は厳然とある。
スポーツのパワハラ体質の権化は審判だ
スポーツのパワハラ体質が問題になっているが、中学硬式野球の監督を十年間やって痛感したのは、何より審判のパワハラ気質だ。
「審判は絶対」という不文律に守られ、たとえミスジャッジをしても謝る必要がない。毅然として(?)、否、傲慢に自分の下した判定を押し通す。
僕は、東京武蔵野シニアという中学硬式野球の監督を約十年やったが、その時のジャッジに関する経験は悲劇的だった。どうしても納得のいかない判定、いやルールを間違って摘要している場合に確認したり、説明を求めたりしたが、そうする態度そのものが侮辱的だとみなされ、取り付く島がなかった。「そんな、選手が可哀想でしょ、あんた間違ってるのに」と言ったことがある。そしたら審判は内心間違いを認めた表情を浮かべた後、「オレたちは下手なんだ、アマチュアなんだから!」と居直った。下手なら下手で、もっと謙虚に振る舞えばいいのにと思ったが、そういうわけにいかないと、いまの野球界ではされている。そんなバカげた上下関係で、信頼が成り立つわけがないし、楽しくスポーツできるはずもない。第一、選手にどう指導すればいいのだ、と疑問ばかりが残った。いまスポーツ界で、監督、コーチ、先輩以上にパワハラ的なのは審判なのだ。
目に余る審判のミスジャッジ、中には確信犯もある
プレーヤーだったころは、審判の判定を受け入れないといちいち気持ちが揺れ動くので、あまり審判の判定を問題視しなかったが、取材・応援する立場になっていかに誤審(と思われる判定)が多いか、そのたびに心臓が破裂しそうなほど憤りを感じた。
ある都立高校の投手コーチを務めていた夏、初戦で優勝候補と当たった。試合開始の1球目、僕が指導する投手が完璧なカーブで打者のタイミングを外し、ストライクを取った。と思った次の瞬間、主審は「ボール」と言った。僕は椅子から転げ落ちそうになった。そして、叫びたいほどの怒りを感じた。隣の役員室?からは、相手校の部長が呼んだらしいアジア系のキャバクラ嬢たちがキャッキャと騒ぐ声がした。ますます腹が立った。2球目も投手は同じカーブを投げ、主審はまた「ボール」とコールした。こうなるともう、追い詰められて、真ん中に真っすぐを投げるしかなくなる。多くの人は高校野球を美化するが、案外、こんなことが日常的な風景なのだ。
セルフジャッジが当然だった、70年代のテニストーナメント
駆け出しのスポーツライターだったころ、国内のテニストーナメントに行くと、1回戦、2回戦などサブコートで行われる試合は選手同士が判定するセルフジャッジ方式が採られていた。
野球も草野球に審判はいない。捕手がストライク、ボールの判定をすればいいし、ひどいコールをされたら打者は文句を言えばいい。どうやって折り合いをつけるかも、そういう遊びの中で覚えていくのが子どもの世界ではなかっただろうか。
ディスク競技のアルティメットにはいまも審判がいない
僕が大学時代に熱中したフリスビー(フライングディスク競技)のアルティメットは7人制。ディスクをパスして、相手のエンドゾーンにタッチダウンパスを決めたら得点になるチーム競技。身体接触は禁止だが、どうしても激しい接触は生じる。だが、この競技が誕生してから今日まで一貫してレフリーはいない。セルフジャッジが基本だ。スピリット・オブ・ザ・ゲームというプライドを持って選手たちはプレーする。さすがにある時期からオブザーバー制が導入され、揉めて結論が出ない場合に助言を求める。あくまで助言であって、最終決定は選手同士でする。そういう競技がいまもあるのだ。
ちなみに、このアルティメットの競技ルールを日本語に訳し、最初の日本選手権で運用する際には僕も翻訳に加わった。スピリット・オブ・ザ・ゲームの翻訳には苦心したのを覚えている。
審判と選手のコミュニケーションは根本的に変えるべきだ
審判がいて、高圧的に第三者が決めるからおかしくなる。間違っていても絶対だとか言うから、絶対の概念までおかしくなる。審判は威厳を保つために偉そうだ。選手との上下関係やコミュニケーションは競技によってずいぶん違う。ラグビーの審判はフレンドリーだ。試合中も常に選手に話しかけ、反則や危険なプレーが起こらないよう、事前に助言する。試合後は、競技場の近くで審判と選手が飲み交わし、その日のジャッジについて激論を交わす光景を僕は何度も見ている。そうやって、ルールの解釈や、選手から見えんなかったファウルを指摘し、互いに理解を深め合うのは重要だと思った。野球では、プライベートで選手と審判が交流することを禁じている。
審判がいるから、審判の眼をごまかす、審判に見つからなければOKという悪しき発想が生まれる。ビデオ判定でだいぶ変わってきたけれど、ビデオ判定があるのなら、レフリーは不要だろう。ビデオに頼る必要がない接触や判定は、自分たち自身でできるはずだから。
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