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"天才"ライターの軌跡14 小林信也 華麗な天才ラガーマン・本城和彦の背中
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本城和彦は1980年前後を彩ったラグビー界最大のスターだった
早稲田大学時代、“プリンス”と呼ばれ、多くの女性ファンから熱い視線と黄色い歓声を浴びた天才ラガーマンがいた。本城和彦。年齢は4つ下だから、僕が大学を卒業した春に彼は大学生になった。
入学直後からスタンドオフのポジションを獲得。4年間すべての公式戦にフル出場し、早稲田大の司令塔として活躍。そのプレースタイルは軽快・華麗そのもので、本城はラグビー界最大のスターとさえ呼ばれた。諸説あるが一般的には松任谷由実の《ノーサイド》のモデルは本城だと言われている。
とくに伝説的に語られるのは、3年の早明戦。国立競技場に定員を超える史上最多66.999人の大観衆を集めた。明治圧倒的有利の下馬評の中、FWの平均体重が10㌔以上も軽い早稲田が明治から5年ぶりの勝利を奪った。それはもちろん本城のゲームメイクが生んだ勝利だった……。
輝きを失った天才ラガーマンをそのまま終わらせてたまるか……という思い
その本城の存在が気になり始めたのは、本城が早稲田を卒業し、サントリーに入社して数年経ったころだ。本城は、当時日本一だった新日鐵釜石などからの熱心な誘いを断り、新興チームのサントリーを選んだ。日本代表にも選ばれたが、本城の評価は次第に輝きを失った。身体が華奢で、当たりに弱い。タックルを好まない本城は、国際レベルのラグビーでは通用しないというレッテルが貼られた。そうした影響もあってか、社会人になってからは年々、本城のカリスマ性は薄らぎ、やがてサントリーでも後輩に先発出場をゆずる状況になった。
僕は納得がいかなかった。
天才はあくまで天才なのであって、天性をわからない人たちの評価によって天才が潰されてなるものか、そんな憤りと、本城に対する思い入れが日に日に高まったのだ。
サントリー・ラグビー部を追うノンフィクション《ワインレッドの彷徨》
本城の取材をしたいと考えて動き出したのは、Number編集部の契約スタッフをやめ、改めてフリーランスになってしばらくしてからだ。縁あって、週刊漫画アクションのノンフィクション・ページで連載させてもらえることになった。そこで本城を書きたいと思ったのだ。ところが、当時のラグビー界はアマチュア規定に厳格だった。本城ひとりをテーマに書くことは許されないとサントリー・ラグビー部に断られた。それで、苦肉の策と言っては申し訳ないが、《サントリー・ラグビー部》を取材させてもらうことになった。「内心のメインテーマは本城和彦」だったが、あくまで本城もいるサントリーの日本一への挑戦を追いかける。《ワインレッドの彷徨》はこうして始まった。
ついに「もう一度輝く舞台」を与えられなかった天才の後ろ姿
結果的に、1995年にサントリーは全国社会人大会初優勝、日本選手権でも初優勝を飾る。一戦一戦、勝ち進むサントリーを頼もしく感じながら、僕はずっと、いつか本城の天性が輝く瞬間の到来を期待し続けていた。本城の才覚が必要になる場面が必ずある……。天才の蕾は、蕾のままで終わらせてはいけないのだ、それは僕の固い信念というか、切なる願いだ。それはいまも変わらない。
優勝した後、サントリーの勝利に安堵しながら、一方で本城の輝きがついに幻に終わった激しい落胆をどうにも抑えられなかった。
秩父宮ラグビー場を離れ、新宿・中村屋に入ってカリーを注文した。目の前にカリーが運ばれてきたら、僕はもう我慢できず、嗚咽が止まらなくなった。
《ワインレッドの彷徨》~サントリーラグビー20年の真実~(双葉社)
小林信也著 1998年11月出版