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"天才"ライターの軌跡16 小林信也 トライアスロン・勝又紀子との出会い
雑誌創刊企画で、トライアスロンの《チーム・ターザン》を提案
Number編集部を離れ、ヒーロー工房という会社を立ちあげて1、2年後、久しぶりにマガジンハウスの石川次郎さんに呼ばれて東銀座を訪ねると、次郎さんが言った。
「今度『Tarzan』って雑誌を創刊するんだけど、なんか面白いことやりたいね」
言われて、僕はすぐに答えた。
「トライアスロンのチームを作りませんか。読者からメンバーを募集して!」
この話は、週刊新潮の連載《アスリート列伝 覚醒の時》にも書いたから、以下一部引用しよう。
新雑誌創刊企画は、1986年7月23日号に告知が載った
《〈「ターザン」トライアスロン・チーム発進! 求む、チャレンジャー。
「ターザン」編集部は、国内および国際的なトライアスロン・レースへの挑戦を決意し、“チーム・ターザン”を発足させます。この“チーム・ターザン”を構成するのは、読者の皆様です。無名、未経験の新人(男女各若干名)とともに、世界の最高峰を目指すという胸躍るチャレンジです。〉
次の号に〈トライアスロン国際大会優勝を目指して〉と題して応募用紙が掲載され、募集が始まった。
約1カ月後、応募は758通に達した。強化担当で84年ロス五輪ではカール・ルイスの4冠達成をサポートした白石宏トレーナーとヘッドコーチの僕が中心となり書類で20人を選んだ。》
上り坂でこちらを振り向いた眼差しを見て決めた
《アイアンマンの10分の1の距離で選考レースを行った。男子13名、女子7名の中には、他競技で実績のあるアスリートもいた。
僕はたった一つの光景を鮮明に覚えている。
自転車の上り坂、頂上まであと少しの急坂でふらふらと倒れそうな女子選手の後ろ姿があった。いかにもロードレーサーに乗る姿がぎこちない。と、不意に彼女がこちらを振り向き、目が合った。怒っているような、困っているようなまなざしに胸を射抜かれた。その瞬間、僕は決断した。
(この選手とやりたい!)
それが勝又紀子だった。当時22歳。元シンクロ選手。競泳、自転車、ランの経験は一切ない。
最終的に勝又を含む6名を選ぶ時、次郎さんが言った。
「すごい人たちがたくさんいたね。でも、チーム・ターザンはあくまで“これから”っていう人たちにしようよ。読者と一緒に手作りでレースに挑戦する、そんな感じ(スピリット)を大切にしたいから」》
(以上、週刊新潮連載から引用)
宮古島大会で日本人女子で初めて優勝
勝又は、1年目から他の女子2選手と共にハワイ・アイアンマン出場を果たし、完走した。2年目にはJTS(ジャパン・トライアスロン・シリーズ)日本平大会で優勝。チームの活動を終えた後も競技を続け、1991年宮古島トライアスロンで日本人女子初の優勝を飾った。94年、99年にも優勝。
山倉紀子と名前が変わった後も、競技と指導、普及に携わり続けている。僕は、連載の原稿の最後を次のように結んだ。
《2008年北京五輪からは日本代表の総務を務め、パリ五輪にも同行した。
雑誌の企画から日本代表に貢献する人材が輩出できた。スポーツライターは取材して書くだけの存在ではない。それは僕自身の覚醒の時でもあった。》
あの日、坂道を自転車でふらふらと昇っていた勝又紀子が、日本の女子トライアスロン界の大切な存在として、貢献を続けている。
未経験から「宮古島トライアスロン」日本人女性初の優勝へ! 勝又紀子が感じた“レースの喜び”(小林信也)(全文) | デイリー新潮