「47年経ってもキミが好き」#4 “原稿紙吹雪”事件
フリスビーとポパイで燃えに燃えていた時期に
K子と初めて会った時、僕は大学3年生。フリスビーに熱中し、翌月の世界選手権(通称フリスビー・ローズボウル)出場を目指し、燃えているころだ。
頭の中はフリスビーでいっぱい。寝ても覚めてもフリスビーのことばかり考えていた。
朝、恵比寿のアパートから代々木公園に向かう。アパートのすぐ前から大学(三田)の真ん前に着くバスがあったけれど、乗った経験はほとんどない。恵比寿から原宿までの通勤定期を買い、週7日、代々木公園に通った。フリスビーを始めてまだ1年だが、その間に僕は日本のトップ選手と肩を並べるようになった。前年秋には、全米オールスターを迎えて開催された《日米フリスビーチャンピオンシップ》の日本代表に選ばれた。両国の日大講堂で行われた大会はその夜、NHKスポーツニュースでも放送された。フリスビーを本気でプレーする選手が両手で数えられる草創期だから、高校野球で甲子園に届かなかった僕でも日本フリスビー協会会長から熱い期待を受ける存在になった。
来日した世界チャンピオンたちと会い、行動をともにしてフリスビー熱は益々高まった。どうしてもフリスビー発祥の地・カリフリニアに行って練習したい、本場をこの目で見たい……! 何しろ日本には自分以上に技術・知識を持つ人はいなかった。「毎年8月、大学フットボールで有名なローズボウル競技場で開かれる世界選手権には6万人もの大観衆が集まるんだ」と聞かされ、ビデオで映像も見たが、日本では「フリスビー」という言葉さえ大半の人が知らない時だから、夢の世界の出来事にしか思えなかった。
大学2年から3年になる春休み、僕はロサンゼルスからサンタバーバラ、サンフランシスコを順に巡り、フリスビー・プレーヤーたちの家を転々と居候した。フリスビーの技だけでなく、自然を愛し、地球環境の保護や世界平和を求める彼ら(大半のフリスビー・プレーヤー)に共通するスピリット、そしてライフスタイルに触れてカルチャーショックを受けた。高校野球の封建的な体質に疑問を抱きながら、どう打破すればいいかさっぱり展望が見えず悶々としていた僕にとって、未来が鮮やかに拓ける衝撃的な旅となった。それでいっそうフリスビーに傾倒した。
「そんなバカみたいになっても、プロになれるわけでもあるまいし」
母親に呆れられた。田舎の両親は、大学を卒業したら長岡に戻り、役所か新聞社にでも務める将来を漠然と望んでいたのだろう。僕には端から故郷に戻る気も、就職する気もなかった。フリスビーに熱中しながら、頭の隅にあったのは「どうしたら物書きになれるか」「どうやって出版社との縁をつかむか」、それだけだった。だから、母親に愛想を尽かされた時、思わず言った。
「フリスビーをやるだけやったら、きっと物書きになれる」
何の根拠もない。咄嗟に浮かんだ言葉だった。言った瞬間、きっとそうなる、そうしてみせる、確信めいた気持ちがハラの底から湧きあがった。僕はあんまり感性豊かではないが、人生の大切な局面で時々、理屈を超えた大切な閃き(ひらめき)に動かされる。その閃きをわりと単純に信じ、そのとおり行動することができた。それがいまにつながる僕の人生をもたらしてくれたのは間違いない。
人生を変えた二つの出会いに加えて運命の女性と会った
K子に出会ったのは、そんなニワカ自然食愛好家、ニワカ平和主義者になったばかりの時期だった。いま書きながら気づいたのだが、そんな僕の生活に、K子は自然と溶け込んで来た。
「着色料なし、砂糖なし、果汁100㌫のジュースしか飲まない」「漂白した白いパン、白い砂糖は口にしない」「出来れば白米でなく玄米を食べたい」「化学調味料の入った食べ物はなるべく避ける」といった、今なら普通に理解される食習慣も、当時は本当に少数派だったから、誰かに言ってもほとんど理解されなかった。でも考えてみれば、K子はごく自然に共感し、そのライフスタイルを一緒に楽しんでくれた。相性がよかったのだろうか。僕らは、当時すでに吉祥寺にあった自然食レストランによく通った。そこで漫画家の楳図かずおさんとしばしば遭遇した。
さてそう、フリスビーのおかげで、本当に僕は出版社との縁が出来た。
初めてのアメリカ修行の旅から帰国した日、僕は恵比寿のアパートに戻ってすぐ、居ても立ってもいられず、日本フリスビー協会の本部があった名古屋に向かった。アメリカで見聞きした情報と、そこで描いた日本での普及振興のビジョンを会長にどうしても伝えたい意欲が抑えられなかった。その名古屋の事務所で、ちょうど『フリスビー特集』の打合せに来ていた雑誌ポパイの営業スタッフとカメラマンの村林さんに会ったのだ。
「ちょうどいい、小林クンに特集号の原稿を書いてもらいましょう。すぐ編集部に紹介します」
村林さんが言った。僕の前に物書きへの扉が現れた瞬間だった。
思えば、フリスビーに熱中し、雑誌で文章を書くチャンスに恵まれ、二重に忙しく、燃えに燃えている時期に、K子という運命の人にまで出会った……。
僕にとって「原稿が大事」だなんて当たり前の常識だけど……
昼は代々木公園でフリスビー、夕方になると東銀座の編集部で仕事。入稿の時期には夜通し編集部で原稿を書いた。50年近く前、間にはワープロもなければファックスもなく、ましてやメールなど存在しない。原稿をすぐ届けるなら持って行くしかなかった。終電の時刻に原稿が書きあがっていなければ、「自宅からメールで送ります」というわけに行かない。入稿するまで帰れないし、自宅で書いた原稿を編集部に届けるには電車で持参するしかなかった。編集部は東銀座。自宅は三鷹。夜遅く、中央線で東京駅まで乗り、山手線で隣の有楽町まで行って10分ちょっと歩いた。
言えば簡単だが、問題はK子だった。
ある日曜の夜、苦しみ抜いて、ようやく原稿を書き上げた時だった。そのころの僕は、1枚の原稿を書くにもウンウン唸っていた。書くのは得意な方だと思っていたが、面白い原稿を書いてやる、この原稿で世間の注目を浴びてやる、みたいな意気込みが強すぎて空回りしていた。
「じゃ、ポパイに届けて来る」
夜11時すぎ、僕は当然のように言った。その時、ちょっとした言い合いになった。詳細は覚えていない。東銀座に行くのは僕にとって必然でも、K子にとってはどうでもいいことだ。押し問答になり、収拾がつかなくなった。終電の時間が刻々と近づく。原稿をカバンに入れて、飛び出そうとした時だ。K子が僕の手から原稿を奪い取った。そして、半分にビリッ! 「何するんだ!」と叫ぶ間もなくさらにビリッ! 呆気にとられるうち、K子は原稿用紙を粉々にちぎり、パァーッと電灯に向かって投げ上げた。白い花吹雪が部屋じゅうに舞った。それは美しい光景だった。
K子は、勝ち誇ったような顔で僕を見た。
僕は意味不明のうめきをもらし、床に這いつくばって原稿を修復できないか、拾い集めようとした。
「やめな、男らしくない」
K子が冷たく言い捨てた。
最初はハラワタが煮えくり返ったが、後の祭り。もう観念するしかなかった。
常識的に言えば、そこまでされてK子を嫌いにならない理由が、読者には理解できないだろう。そんな衝突はその時だけではない。だけど、なぜか根には持っていない。僕は、プラトニックなマゾなのか……。
いや僕は、逆境に強い、というか、逆境をバネにしようとする思考が強いのと、反省するのが嫌いじゃないタイプなのかもしれない。そんな衝突に出くわすたび、K子を責める気持ちより、自分の行動や判断を反省する方に心が向かった。それはいまも変わらない。
(K子の言う通りだ)
と思ってしまう。それは僕のやさしさ、器の大きさか、惚れた弱みなのか、K子の説得力が絶対的なのか、よくわからない。
K子には、世間一般の常識は通じない。打算まじりの説得は意味をなさない。「仕事しないと暮らせないでしょう」みたいな言い訳は最も通じない。K子は、「金は天下の周りモノ」と本気で信じているからだ。根っから浮世離れしている。K子にとって重要なこと、絶対に譲れないことは、お金や世間体ではない。
愛だ、究極のやさしさだ、海よりも深い思いやりだ。
僕にとっては、「原稿は何より大事なもの」という当たり前の常識がある。K子だって「大事だ」くらいはわかっている。だけど、K子には「原稿よりももっと大切なもの」が当たり前に存在する。それは、二人の時間、二人の会話、K子の問いかけに誠意を持って応える僕……。でも僕は、思いやりより原稿を優先する。
原稿が紙吹雪になった時、僕は高速回転でいろんなことを考えた。K子を責めても何も始まらないことをまず思い知った。
僕が常識や分別を持ちだして、「常識的にはK子の方が当然おかしいでしょ」と少しでも思う限り、謎は解けない、K子の望む生き方には到達しない。ふたりで幸せな人生をやっていく上で、K子が激しく責め立てる僕の〈凝り固まった驕り〉を溶かしてしまうことは、重要な土台なんだ、と僕はきっと心で感じたのだ。感じたけれど、すぐには変われない。だから、その後何年も衝突は絶えなかった。心の奥に、僕は間違っていないけれど、K子を尊重して自分が謝ってやろう」という上から目線の考えがへばりついていた。それがわかるから、K子は容赦なく僕を責め続けた。
それでそう、原稿が紙吹雪になった夜、僕は編集部にお詫びの電話を入れ、気を取り直して原稿を書き直し、始発で届けに行った。
【後日譚】
Noteに掲載する前に、原稿を予めK子に読んで聞いてもらう。何か間違いや感覚的に違うところがあれば指摘を受け、加筆修正する。それがnoteに限らず、たいていの原稿を発表する前の習慣だ。
今回も聞いてもらった。K子の反応は、僕の予想とあまりにも違っていた。
「そんなこと、あったぁ? ノブヤ、話を創ってない?」
「えっ! あのこと、忘れちゃったの?
「記憶はゼロ。一切、覚えてない」
K子は涼しい顔で言った。アーメン。
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