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どう思うか、どう思われるか、

自分ではない誰かと交わることから避けられないこの世界では、他人からの評価が絶対的な力を持つ。
自分がどう思うかより、自分がどう思われるかが、優先される。

思えば、通知表も試験も内申点も全部、自分ではない誰かからの評価だった。
それら他人からの評価がぼくらの進路を決めるコンパスとなり人生を歩んできた。

自分自身を客観視することは大人でも難しい。子どもであれば尚更そうだろう。
第三者的視点から見たときの自分を知ることは、人に気づきと発見を与える。

自分は何が得意で何が苦手なのか、自分は何が好きで何が嫌いなのか、自分はどういう人間なのか、自分を知るという点でも客観的な他人からの評価は意味を持つ。
客観的な評価が重要であることは言うまでもないが、ときに他人からの評価はひとを地獄へと追い込む。

特に表舞台に立つ人ほど、他人からの評価からは逃れられない。
顔も名前も知らない不特定多数の他人から望んでもないのに評価される。
世間にはいろんな人がいて、評価もまた様々である。

「評価されたくなければ表舞台に立たなければいい」その考え方も否定はできない。
表舞台に立つからには、覚悟は必要だ。

ただ彼ら彼女らは、きっとそんな覚悟はとっくにしているだろう。
それよりその覚悟をも上回るくらいに、他人からの評価が強い力を持っているのではないか。

もしかすると、他人からの評価をコンパスにして生きてきたぼくらは死ぬまで他人からの評価に支配されるのかもしれない。

客観的な評価はときに必要であるが、決してそれが全てではない。
それよりも自分がどう思うかが大切である。
自分がどう思われるかよりも自分がどう思うかを大事にする。
それによって自分の道を決めていく。
他人からの評価を受け入れる覚悟よりも先に、自分の人生は自分で決めていくという覚悟を持つこと。

他人からの評価はそれ以上でもそれ以下でもない。
他人からの評価は絶対的ではない。
相対的にみて評価される。
また、他人からの評価は画一的ではない。評価する人が変われば、当然自分の評価も変わる。

そんなことは頭ではわかっているが、それでもやっぱり自分がどう思われるかが気になってしまう。
かと言って、他人からの評価が気になるひとが弱いと言うことではない。

そんなものだ、それが人間だと諦めるほかない。

大切なことは、他人からの評価が気になっている自分を自覚すること。
それから、なんで気になるのか少し立ち止まって考えてみること。
それだけで少しずつ変えていけるのではないか。

自分がどう思われるかも大切だから、ちゃんとその気持ちも持っておく。
そのあとで、自分がどう思うかに目を向けてみる。

少しずつでいいから、自分がどう思うかを大切にしていく。
自分がどう思うかと自分がどう思われるかの、ちょうどいいバランスを見極めていく。

そのうち、そのどちらをも人生のコンパスにして、生きていける気がする。

そうやって他人からの評価という呪縛から解き放たれたとき、やっと自分の人生を生きられるようになるのかもしれない。


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