延藤 直也
日記的詩
部屋と部屋 街と街、国と国 を隔てる 闇のような壁 朝は低く、夜は高い 夏は厚く、冬は薄い 呼気が届く距離にありながら 手の届かない距離にある壁は 時間の経過と季節の移ろいによってのみ 変化し、その変化に合わせて 通り抜けて来た 暗号のような、呪文のような 言葉の破片を拾う
晩秋の朝鶯の鳴き声が 毛布の温もりと共鳴する トーストに溶けゆくバターの香りが 物干し竿をしならせる 砂糖が沈んだコーヒーの液面に 乾いた自転車のブレーキ音が響く
記憶とは全く異なる 自分の顔が カーテンの無い 窓に醜く映る 薄い壁は 騒がしい音を通さない代わりに 静かな音を淡々と響かせる 湿地のような湿度と明度の 一室で 昇らない陽を いつまでも待っている
海へと続く硬い道に 瞬きより早い 陽の光が沈んでいく 夜より暗い夕方の闇の中で 海までの距離を憂う 海亀の遅い足跡を ふくよかな秋の腕が やさしく包む
硬く鋭い雨が 海の見えない街を ゆっくり濡らす 遠くで聞こえる雨音は 夢の中で聞く波音と 耳心地よく重なり合う 足先だけが 砂浜のような温かい冷たさに 包まれる
一番遠い距離にある星は 一生懸命に輝いている 一番近い距離にある星は つまらなさそうに輝く 一番遠い星と一番近い星との距離は 百年より長く一瞬より短い 決して線では繋げないはずの星々を いとも簡単にチョークで線を引いては 星明かりより小さな嘘をつく 夜の暗さを知らない ゆっくりとした他者の沈みも 上り続ける鼓動の速さも知らない いつもより手を強く振って 体重より重い歩をなんとか前に進める
二台の倒れた自転車の 愛なき抱き合いは 北風の冷たさと 太陽の温かさの 間に沈んでいる 気怠く伸縮を繰り返す 冬の曇空みたいな惰性の生活は 薄い毛布を何枚も重ねたような居心地の良さ 進み続ける時間に抗うように 目を閉じて本を読み 耳を塞いで歌を聞く 一年前と変わらない今日の秋に 無関心でいる
なんだか温かい晩秋の夜風 いつもの帰路 鞄から落ちた言葉や 車に轢かれた言葉あるいは街から溢れた言葉を 淡々と拾いながら歩く 足元から 音ひとつ立てることなく滑らかに すうっと広がる見えない闇 排水溝の泥 電信柱の傷 信号機の影 闇色のそれらが 分厚い輪郭とともに 夜を彩る
白昼夢の鴉は 無色透明の羽毛を纏い 内臓や血流 あるいはひとつ一つの細胞まで 顕微鏡のような 高い解像度で見える 津波のような羽ばたき 地鳴りのような鳴き声 吹雪のような冷たい眼 決して群れない 孤独な飛翔が 灰色の曇り空とアスファルトの間を 見事に支配する
北風の冷たさと夕方の暗さが 街の上に浮き立ち モノクロームの街路を 真っ黒な猫が駆け抜ける 温度を保とうとすればするほど 無意識に歯を食いしばって 歯を食いしばっていることに気づいた時には 鈍い痛みが閉じたままの口内に残る 薬缶から沸く湯気 洗濯物の乾き具合 右手指のあかぎれ 浅い呼吸の連続 その節々に漏れる深い呼気 吐いた分の息を吸い込もうとすると 死のにおいが仄かに鼻腔を擽る
自らの身体を なんとか浮上させるため そのためにできることなんて 部屋の明かりをすべて消すこと それだけなのです 明かりをすべて消しところで 寒いまま 震えたまま 止まったまま 姿勢や態度は何ら変わらないのですが 身体が浮く感覚が 身体の内側と外側の境界に 生まれます 状況というのは 大きく変わることはありませんが 小さく変わり続けます 変化をもたらす要因はさまざまですが 思い込みや考え過ぎ あるいは何もしないということ なのかもしれません 暗い 何も見えない というこ
何の変哲もない ただの交差点 空より高いビル 卵型の朧月 薄く霞んだ停止線 こちら側と向こう側の歩道とを 繋ぐ夜の横断歩道は ほとんど吊り橋のようで 一歩ずつ足跡を確かめながら進める歩みは とても遅い 横断歩道の途中で止まり 歩くのより速い回転で思考する 信号の青が照らす歩く意味や目的 歩き始めた瞬間の光の点滅が 視覚の根底に沈んでいる
海へと繋がる無灯の小路は 夜を飛ぶための滑走路 速度の上がらない 機械的でまた人間的でもある歩は 怠そうにからっと乾いた音を立てる 枯葉色の猫が 無関心を装って 消えかけた足跡をなぞる 止まったままのような時間は あまりにも滑らかに経過し 夜の深さが感覚や思考は鎮める 目を閉じてから 目を開くまでの 凛とした時間
鮮明な工事音を 乗せた乾いた風 街角から街角へ まっすぐ伸びる 誰も明確に線引きできなかった 曖昧な夢と現実の境界にも 些かずれもなく線を引く 葉を溢した枯木は 朴訥と空を見上げ 鬱血した青黒い空
耳たぶの裏側から 蜜のようにほんのり垂れた 汗 渇いた感覚が 滴る汗の形と色を正確に捉え 二滴三滴ではなく ただの一滴と認識する いつもより重たい夜の扉 足跡を残さない硬い道 細やかな雨粒が浮遊するため池 風の停滞が月明かりを呼び 夜より暗い影が 街灯と街灯の間に立つ
北風の重たい足音を追って 明け方かあるいは夕方を歩く 街角から街角 隙間の鉄塔 いくつかのバス停 自動販売機の明かり 振り返れば過去の影が 哀しそうにもしくは楽しそうに 自動販売機横のベンチに座っている これから明るくなるのか暗くなるのかもわからない来た道をゆっくり戻る ほとんど覚えていないその道