野武士の行方にあるもの
東京のダイバーシティカップ
竹内さんとの語らい
2017年、大阪では翌年ダイバーシティカップ関西大会の初開催に向けた準備や人材交流に向けて着々と準備が進められていた。
ちょうど同時期に、東京でもダイバーシティカップ4(第4回大会)が開催されることになり、関西大会の実行委員会メンバーの一員として、私と川上さん(ビッグイシュー基金大阪スタッフ)、そして竹内さん(PSIカウンセリング代表)の3名で東京大会の運営ボランティアとして参加した。私と竹内さんは前泊という形で、大会会場付近の宿泊施設を借りて当日に備えた。
竹内さんとは、野武士の練習時によくお話しする方の一人だ。気さくに色々楽しく話して頂いて、新参者の私や新しいボランティア、当事者の方を快く受け入れていただける方だ。
そんな竹内さんと宿泊施設内で、「野武士の今後」について語る場面があった。
『佐竹くん、野武士は今後どうなっていくんだろうね?』
私は一拍置いて答えた。
『そうですね、、、当事者の皆さんが社会復帰すれば、野武士ジャパンの活動自体は完結しますよね。』
あくまで当事者の自立を応援する、その為の手段的な意味合いで私は答えた。そうすると竹内さんは、
『そうだよね。でも、それで本当に良いんだろうか?』
ベッドに横になりながら聞いていた私は、何やら不思議なベールに包まれたその発言に耳をそばだてた。竹内さんは続けた。
『ホームレスサッカーってさ、学校の部活動のサッカーと似ているよね。始まり(入学)があり、終わり(卒業)がある。学校生活のなかでの部活動って「人との交流の場」であるし、「生涯発達の場」でもある。でも、終わり(卒業)は避けられない。終ってからもそういう場が持てるようにする為には、どうしていけばいいのだろうね?』
竹内さんの熱い問いかけには、私も薄々感じていたものが明瞭に言語化されていた。
ジレンマとの戦い
先ほどの竹内さんが述べた言葉について、私含め一部界隈で【ホームレスサッカーのジレンマ】と呼称している。すなわち、本来はホームレス状態の解消・自立が目的で始まった取り組みであるはずが、野武士ジャパンという活動自体が、ホームレス状態をキープさせることに繋がっては本末転倒だという話だ。あくまでこの活動を通じて自立していくことを忘れてはいけない。
しかし、この活動を通じて醸成された「人との交流の場」「生涯発達の場」としてのコミュニティーは終わらせて良いのだろうか?と言われると、答えはNOだ。自立して以降も、築き上げてきた信頼関係や安心できる居場所というものは、終わらせるべきではない。むしろ、積み重ねていくべき価値あるものだと据えてよいものである。
パリ大会のトラウマ
実は、そんなジレンマに関連した過去の出来事として、野武士ジャパンが世界大会に挑んだパリ大会の出来事がある。過去の投稿記事と重複するが、このパリ大会出場に向けた一連の出来事を綴った著書「ホームレス・ワールドカップ日本代表の あきらめない力」では、当時の出場前後の様子が綴られている。
この著書では、当時の様子を振り返りつつも、日本のホームレス問題に立ちはだかる偏見や課題感、世間との認識のズレがあり、様々な箇所で苦労したストーリーも描かれている。実際に、出場に向けたファンドレイジングや代表選手のパスポート取得難、選考に伴うコミュニケーション、大会期間中に惨敗して大喧嘩した等、チームマネジメントに於いて精神的にも体力的にも大きなリソースを注ぐことになった場面も描かれている。
もちろん、そのなかで得られた貴重な意識である「あきらめない力」は尊いものである。しかし同時に、大会に出場した選手たちが、今どうなっているのかと問われると、私自身も知り得ない部分もあり、答えにくい部分もある。
実際に、2023年今日、野武士ジャパン東京チームの練習には、パリ大会当時の出場選手は練習に参加していない。
・自立してもう来なくなった人
・ご高齢で体力的にきつくなり、来れなくなった人
・一時的に自立するも再び当事者になってしまい、行方が分からなくなった人.etc…
当時の基金スタッフや運営メンバーが大きなリソースを注いだ後、彼らが想像していた結果や世界になっていたのかどうかと言われると、若干怪しい部分も散見される。
一方では成功体験ではあるし、他方では失敗体験でもある。何を以て自立したと言えるのか、何を以て社会復帰したと言えるのか。
そのようなこともあり、パリ大会での大義名分(意味づけ)が大きくなり過ぎたことによって、その後の活動に支障をきたす、つまりトラウマを抱えるようになってしまったのが、野武士ジャパンなのである。
社会復帰という言葉は安易に用いない
大阪のビッグイシュー基金スタッフ・川上さんが、年2回の季刊誌『SHUKYU Magazine』の当時の取材で以下のようにコメントしている。
「社会復帰」や「自立」という言葉には、世間が考えるイメージとは乖離した”しんどさ”や”困難さ”を担っているのかもしれない。野武士ジャパンの活動が、ホームレス当事者にとってのすべてではない。
ただ、関わっている皆さんがこの活動を通じて「楽しさ」「面白さ」「生きがい」など、ポジティブなイメージを以て健やかに取り組んで頂けるならば、そういった空間・環境というものを応援したいと真摯に思う次第である。
そして、そういった居場所への”緩やかな関わり”というのものも大切であるということを私自身学んだ。
パリ大会での出来事を鑑みると、選手は人生に1度しか出場できない(※つまり、その大会を通じて自立する)ので、翌年も同じ選手が出場するという、通常の競技大会であるようなポジティブな継続性が担保できない。
敷居を下げつつ、社会的困難を抱える当事者の裾野を広げてゆき、各々が望めば自由に取り組むことも出来る、まさに“自由”と”決断”のスポーツであるサッカーが体現出来うるムーブメント。それがダイバーシティカップの現場で垣間見ることが出来るのだった。
我々が求めている”価値”というものは、”ある”か”ない”かという次元ではなく、”伸びたり”、”縮んだり”する伸縮自在なものであると、私は感じている。
ダイバーシティカップ4開催
2017年11月18日、東京都のミズノフットサルプラザ味の素スタジアムにて、ダイバーシティカップ4(第4回大会)が開催された。
当日私が担当した運営業務は「1Fの伝達係」。この施設は2階建てになっており、1Fでチャレンジリーグ(上位レベル)、2Fでエンジョイリーグ(下位レベル)のリーグ戦が繰り広げており、竹内さんが「2Fの伝達係」になり、星取表の情報共有・連携、実際の星取表に記入して上下階の試合状況をリアルタイムで反映させていた。
(激しく階段を上り下りした思い出がある。。。笑)
会場の様子も見ながら、後半は審判も手伝いながら臨機応変に動き回った。
※大会の詳細な様子は下記にて。
大会終了後
東京メンバーとの交流
大会終了後、近所のファミレスで軽い打ち上げが実施された。基金東京スタッフで大会委員長の長谷川さんは、野武士チームの引率や大会備品の運搬・片付けの為、その場には居合わせていなかったが、ここで初めて野武士ジャパン東京チームの運営メンバーとの交流となった。後にダイバーシティサッカー協会の監事となる青木さんや油井さん、そして協会代表となる鈴木先生やアンバサダーの星野さん等、沢山の多様なメンバーが一同に集っていた。そして勿論、私がこの活動に携わるキッカケとなった人物・蛭間さんもそこに居た。
『蛭間さんこんにちは!佐竹と申します。よろしくお願いします!』
『おお!君が佐竹君か!噂は聞いていたよ。』
どうやら私が野武士ジャパンに関わる背景や出自等は、基金を通じて東京チームにも広まっていた模様だった。
きっかけとなった著書の感想や疑問点等を蛭間さんに投げかけながら、これまでの経緯や今後の野武士の行方等、お聞きしていった。
『当時と今では状況が全然違う。現状や今後を鑑み、ダイバーシティカップやリーグ構想が練り上がってきた。』
お会いした当時、私は「なぜ、ホームレスサッカー野武士ジャパンがダイバーシティカップに取り組むようになったのか」、まだ分かっていなかったのだ。大会前夜に竹内さんから投げられたジレンマという命題、パリ大会のトラウマ等、この活動を通じてゆっくりと理解していくことになったのである。
とにかく、蛭間さんの記事と書籍を発端に野武士ジャパンやダイバーシティカップに関わるようになったことに対し、感謝を申し上げたかった私は、持参した書籍にサインを頂き、打ち上げを終えた。
大会を終えて
打ち上げを終えた頃には新大阪行きの新幹線も終電を迎えていたため、その日は池袋駅前のネットカフェで素泊まりした。
翌日、大阪の友人からサッカー大会の助っ人を急遽頼まれた為、朝イチの新幹線でとんぼ返りし、満身創痍のなか長居競技場へ足を運んだことが記憶に新しい。
しかし、身体は疲れていたものの、心はどこか晴れやかな気持ちだった。
東京大会の参加者の笑顔や熱意等、ダイバーシティカップ本流の温度を肌で感じ取り、東京の運営メンバーの人となりを知ることによって、こうして自分が野武士ジャパンの活動に関わったことに対して「やはり間違いなかった」と更に自信を持って言えるようになったのは大きな成果だったと言える。何事も”本物”を観る・触れる・知る・感じることに勝るものはないと思える。
そして、ダイバーシティカップ関西大会の準備を迎えるにあたり、東京大会の運営事情も知り得たことも大きかった。準備に必要なリソース、当日の全般的なマネジメントから印刷物のレイアウト、何をどう準備し、進めていくかの進行表等々、全てが学びの瞬間だった。
To be continued…