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24.10.13 山括弧塾 入不二基義 創発における「無」の問題 講義メモ

入不二氏の主張
・「端的な無からの創発」は形而上学的に不可能である。
・独在性〈私〉の創発は、存在論的な創発よりも「さらに強い創発」である。(故に、独在性の〈私〉は「端的な無からの創発」ではない。)

入不二氏は創発のレベル(強さ)を大きく3つに分類する。

1.認識論的水準の創発…認識論的水準の創発とは、「一般的な事柄における個別的な事象、として捉えられた創発」である。即ち、事象Bがそれに先行する事象Aの性質ないし力によって説明する事が出来る様な原因→結果によって捉えられた因果的連関における産出や、法則性や規則性の範囲内において収まる事象(従って法則性や規則性を基に予測する事が出来うる事象)の事である。
2.存在論的水準の創発…認識論的水準の創発よりも強い創発である。何故なら、存在論的水準の創発とは認識論的な水準で起きる因果的連関からの断絶であり、一定の法則や規則の範囲内から逸脱するような事象のレベルでの創発であり、一般化、類化する事が出来ない、即ちあらかじめ予測したり認識される事を拒むような、認識論的水準から自立する存在論的水準における創発だからである。即ち、因果的連関や法則性、規則性からも逸脱する事が出来るレベルの創発だから、認識論的水準における創発よりも「強い」のである。
 しかし、存在論的水準の創発は因果性や法則性から断絶・逸脱しているとはいえ、存在→存在への創発である事に関していえば、認識論的な創発と同じレベルだと言える。では存在論的な創発よりもさらに強い創発はないのか、そこで提案されるのが次の「端的な無からの創発」である。
3.端的な無からの創発…「端的な無からの創発」は、認識論的・存在論的水準よりもさらに強いレベルの創発として考えられた創発である。何故なら、認識論的・存在論的水準の創発が存在→存在の創発であったのに対し、「端的な無からの創発」は無→存在の創発だからである。存在論的な水準の創発は、因果性や法則性から断絶・逸脱するとはいえ、断絶・逸脱するという事は「何か」の断絶であり、「何か」からの逸脱である限り、創発される前に「何らかの存在」を要請している事に他ならない。一方、「端的な無からの創発」は、そのような先行する存在なしに創発するのであるから、当然、存在論的な水準の創発よりも、さらに「強い」という事になる。
 では「端的な無からの創発」は起こりえるのか?入不二氏は「端的な無からの創発」は形而上学的に不可能であると主張する。何故ならなら、「端的な無からの創発」という時の『…からの』が非常に問題含みであるからだ。『…からの』という事は、それが無であれ何であれ、創発される前になんらかの存在を要請してしまうからだ。つまり端的な無『からの』創発と言ってしまうと創発される前に「端的な無が存在する。」という事になってしまう。それでは結局、存在→存在という存在論的水準の創発のレベルまで引き戻されてしまう。しかも『…からの』という事は、何らかの時間的継起を表しているし、何らかの場所(空間性)も暗黙裡に要請している事になるだろう。従って「端的な無からの創造」といった所で、「端的な無」は「何もない場所・空間」の様なものへと変質してしまうし(端的な無が空間性を内包してしまう)、『からの』という表現は『→』で表される様に、端的な無が何らかの時間的継起を含んでしまう(端的な無が時間性を内包してまう)。従って、「端的な無からの創発」は、『…からの』が「端的な無」を「端的な無ではないもの」へと変質してしまう。従って結局、存在→存在の、存在論的水準の創発のレベルまで引き戻されてしまうのだ。

 さて、この様にして創発のレベルを1.認識論的水準の創発、2.存在論的水準の創発、3.端的な無からの創発に大まかに3つに分類した所で、永井均の独在性〈私〉の創発はどの水準に属するのか?入不二氏は独在性〈私〉の創発は、存在論的水準よりもさらに強い創発であると主張する。(しかし、「端的な無からの創発」ではないことに注意。なぜなら「端的な無からの創発」は形而上学的に不可能である事は先に論証した通りである。)
 もし、独在性〈私〉が創発されるものだとして*、独在性〈私〉の創発が、存在論的水準よりもさらに強い創発であるのは何故なのか。
*独在性〈私〉はそもそも創発されるものなのか?そもそも独在性〈私〉は創発されるようなものではないのでは?という事は当然問題となってくる。(永井氏は、そもそも独在性〈私〉は創発される事/されない事とは無関係であると考えているふしがある(創発との無関係性)。永井氏は独在性〈私〉は特定の属性(私や今)に関わる、領域存在論であると主張する。)
 仮に独在性〈私〉が創発されるものだとして、独在性〈私〉の創発が通常の存在論的水準の創発よりもさらに強い創発だといえるのは、独在性の〈私〉は、通常の存在論的水準によって創発されたものとは、全く異なるレベルにあるものだからである。というのも、通常の存在論的水準において創発されたものは、何らかの特定性を有するものであり、固有名によって名指す事が出来る様な対象(世界内存在)だからである。つまり、名指しによって対象化されるという事は、客観的に認識され、一般化、類化されてしまうという事であり、もともとは、存在論的な水準で創発されたもの(因果的連関からの断絶や法則性からの逸脱)だとしても、世界内に存在する対象として創発された事によって、後から一般化、類化されて、新たな因果的連関や新たな法則性や規則性の内にからめとられる事により、認識論的水準の創発のレベルまで下落する可能性を含んでいる。しかし、独在性の〈私〉はそのような世界内に属する一アイテムではない「世界内非存在」である。独在性〈私〉は、ある中心点(広がりのない点)から世界が開かれる様にして、世界を限界付ける形而上学的主体である。故に、それをいかに対象化、類化、一般化しようとしても、世界に存在する一アイテム、一現象ではない為、対象化や類化を逃れ続ける様な力を内在している(類化される事を逃れ続けようとする力が累進構造を駆動し続ける力である)*。

*…「独在性(この私性)は、世界内非存在であると同時に、言語表現的にも「無」であり、無限反復でも届かない」

*配布資料P27

 即ち、独在性〈私〉は、世界内非存在である限りにおいて、世界内存在とは無関係に(即ち因果的連関や、法則性、規則性とは無関係に)、創発するものであり、独在性〈私〉は、通常の存在論的水準において創発された世界内存在の様に対象化、一般化、類化されず、むしろ一般化、類化を無限に逃れ続ける様に働く為、認識論的水準の創発へ下落する事はない。従って、仮に独在性〈私〉が創発されるものだとすれば、それは通常の存在論的創発よりもさらに強い創発だといえる。

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