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2024.11.2 ワークショップ「強い創発を作る」―入不二基義「創発における無の問題」視聴メモ
2024.11.2 ワークショップ「強い創発を作る」―入不二基義「創発における無の問題」視聴メモ
このワークショップにて入不二氏は、飯盛―メイヤスー的な切断・非連続的な創発論を「強い創発」と位置付けると共に、飯盛―メイヤスー的な「切断・非連続的な創発」を押し進めるならば最終的に「端的な無への創造」と「無底(=端的な事実)」へ行き着く事にならざるを得ないだろうと主張する。
飯盛―メイヤスー的な「切断・非連続的な創発」は、「漸進的・連続的な創発」よりも強い創発として位置付けられる。
「漸進的・連続的な創発」とは、自然科学の様に、発展・前進していくような認識論的な体系と考えてよいだろう。例えば、物理学において既存の電気力と磁気力を包括する様な仕方で電磁気力として統一され、電磁気力と弱い力を包括する様な電弱統一理論として統一され、さらに4つの力が統一されて大統一理論として発展・前進していくような認識論的な「創発」である。あるいは空間であれば1次元→2次元→3次元→4次元…という様な、既存のものを包括する形でより新たなものが階層的に積み重なる様な創発の形である。従って、弱い創発とは、既存のもの→新たに創発するものとの間には互いに共通するものを有しており、それが連続性を担保していると言える。(自然科学では因果性や熱力学の法則等)
一方、飯盛―メイヤスー的な「切断・非連続的な創発」な強い創発とは、その様な共通項なき創発であり、既存のもの→新たに創発するものとの間に連続性は認められない切断的・非連続的な創発である。従って既存の原理・原則からも逸脱する事が出来る様な「強い」創発である。従って、それは既存の知識、法則性や規則性を基に認識する事が不可能な創発であり、「切断・非連続的な創発」は、認識する事が不可能な存在論的な創発である。
しかし、飯盛―メイヤスー的な「切断・非連続な創発」は既存の法則・規則性→まったく別の新たな法則・規則性の創発であるが、切断・断絶が「既存の何かの切断・断絶」である以上、存在→存在の創発である事に関しては共通しており、そこに新しさはない。従って、「切断・非連続な創発」における切断性・非連続性を押し進めるならば、存在→存在の連続性すらも切断して存在→「端的な無」への創発へと向かうべきであろう。
しかし、「端的な無からの創発」が形而上学的に不可能である様に、「端的な無への創発」もまた形而上学的に不可能であるだろう。『~への創発』という事は「端的な無」が時間性によって貫かれている二項における一項という事になり、「端的な無」であるにも関わらず、時間性を内包しているし、「端的な無」であるならば、本来、二項関係における一項という座を占める事すら不可能であるはずである。(切断・非連続という概念はある特定の関係性を切断する事は出来ても、関係性それ自体を葬り去る事は出来ない。「新しさ」は、既存の「古い規則・法則」との切断・非連続性という『関係性』により成立する。)
従って「切断・非連続な創発」を押し進め、存在→存在の連続性すらも『切断』する存在→「端的な無」への創発を試みても必ず失敗に終わり、「端的な無」はもはやそれが「新しさの出現」とすら言えない、認識される事を拒むような「カオス」に変容するか、「端的な無」を巡って、「無の実現・生起」⇄「実現・生起それ自体の無」の閉じない循環へと回収されるだろう。
また「切断・非連続的な創発」が常に「新しさの出現」であり、常にそのように「新しさの出現」で溢れているならば、「新しさの出現」は日常茶判事であり、それ自体に新しさはない事なる。また飯盛―メイヤスー的な「切断・非連続な創発」が既存のいかなる法則や規則によっても説明される事を拒むような無理由・無根拠である端的な事実性に帰結する様に、認識論的な創発もまた既存の法則性・規則性を包括する様な新たな法則性・規則性によってどれだけ連続性・漸進性を有していようと、法則性や規則性を根拠づける究極の法則や根拠はない(連続性・漸進性である以上、そうでなければならない)様に、常に生じている創発は、「連続的・漸進的」創発であろうと「切断的・非連続的な創発」であろうと、その法則性や規則性の根拠に底は無い(無底=端的な事実である)。従って、創発というものは常に既にそのような無根拠・無理由である端的な創発であるという事になり、飯盛―メイヤスー的な「切断的・非連続的な創発」である「新しさの出現」は「日常茶判事性」へと帰結する事になる。