見出し画像

山括弧塾 清水将吾「限界概念論―私の存在から鏡の世界へ3」講義メモ

山括弧塾 清水将吾「限界概念論―私の存在から鏡の世界へ3」講義メモ

清水氏の主張
・鏡の世界とは現実世界と数的にまったく同じ事実が生じており、ただ左右の向きだけが異なっている様な可能世界の事である。
・鏡の世界はこの世界と同じだけ美しい
(左右反転させても美しさが損なわれる事はない。何故なら「美しさ」という限界概念は「左右の向きを伴って」という限界概念よりもさらに外側から働くからである)
・従って「美しさ」という要因によって、(鏡の世界の左右の向きではなく)この世界の左右の向きが『現実』になっている訳ではない。(即ち、現実性が美しさを分有する訳ではない)。
(むしろ現実性は、「美しく…」、「左右の向きを伴って…」、「xの身体を中心として…」等の限界概念が実在する対象を要因として成立するものではない様*に、現実性もまた、限界概念によって表されるいかなる副詞的様態を要因として成立する様なものでもなく、一切の内包と無関係に成立する様な、『絶対的限界概念』でなければならないだろう)
*限界概念は世界の対象を要因として成立するものではないとはいえ、限界概念は他の限界概念と関係付けられて成立する。例えば、「xの身体を中心として…」という限界概念は、「左右の向きを伴って…」という限界概念から自立して存在する事は出来ない。つまり、「xの身体を中心として…」という限界概念は、常に「左右の向きを伴って…」という限界概念と共に働く。しかし、その逆は、つまり「左右の向きを伴って…」という限界概念は、「xの身体を中心として…」という限界概念からは自立して存在する事が出来る。つまり限界概念は一方が他方の限界概念を内包するという仕方で関係付けられている。
・「美」という限界概念は「「左右の向きを伴って…「Sの身体を中心として空間を持つ」」という事態よりもさらに外側から働く限界概念※である。
※限界概念とはある事態に内在しつつ偏在する様な仕方である事態を限界付けている概念の事である(従って、限界概念は事態を構成する要素でも対象でもない。限界概念は、事態に遍く内在して事態の様態(モード)を表すと共に、その事態を限界づけている(他の事態と区別する)。

全三回の講義をまとめるとこうなる
第一回講義 「この世界は、Sの身体を中心として…空間を持つ!」という驚愕の事実を語ろうとしても、「SにとってSの身体を中心として…空間を持つ」、とか「Sの身体を中心として経験する…」という様な可能的な事態の一つとして伝わってしまう。(しかし、他人にこの事実が仮に伝達可能だとして、それは一体何が伝わる事になるのだ?つまりこの事実は他人と共有する事が不可能な事柄なので『伝達』という事がありえず、形を変える事でしか(他人にも理解出来る様な一般化や概念化、ないし相対化される事なしには)伝達するという事がそもそもあり得ない事なのではないのか?そして私が言いたい事実は(私にしか言えないにも関わらず)他人も同じ様に言うのだから、この事実を口にしているのが私という理由から、この事実が私だけに存在する事の証明とはならない(風間問題)。)

第二回講義 諦めずこの事実を語ってみるとして、「この世界は、Sの身体を中心として…左右の向きを伴って…空間を持つ」と言ってみる。しかし、左右という空間の向きは、私の身体が存在しなくとも成立している様な、より包括的な副詞的様態であり、別にこのSの身体でなくとも成立する様な事として理解されてしまう。或いは、私の言及は「SはSの身体を中心として、左右の向きを伴って、経験を持つ」という様な可能的な事態の一つとして伝わってしまい、私が言いたかった事は隠されてしまう。
「この世界はSの身体を中心として…空間をもつ」、という伝達は(常に隠されてしまうので)諦めて、「この世界は、左右の向きを伴って…空間をもつ!」という事実を述べてみたらどうだろうか?しかしそれは、より高次元の空間の存在(4次元)によって、左右の向きという差異は解消され、隠されてしまうのではないか?

第三回講義 「この世界は、左右の向きを伴って…空間を持つ!」という事を言おうとすると、4次元空間という想定において左右の向きは反転され、左右の向きという空間の差異は解消されて(隠されて)しまう。或いは、「この世界は、左右の向きを伴って…空間をもつ!」といっても、鏡の中の可能的な世界も左右の向きを持っている。従って「世界Aは世界Aにとっての左右の向きを伴って…空間を持つ」という様に、可能的な事態の一つとして隠されてしまう。そこで、鏡の中の世界は左右の向きがない事を示す為に、鏡の中の4次元空間で左右の向きを反転させる事により、鏡の中の左右の向きを解消させ、こちらの鏡の外の世界だけが左右の向きを伴った空間を持つと言えるだろうか?いや言えないのだ。なぜなら鏡は2次元表面を持つからであり、2次元鏡面には3次元方向からの光しか届かず、4次元方向からの光?は届かない。(2次元空間における1次元鏡面を持つ鏡を想像してみるとよい。1次元鏡面に届く光?は2次元方向からの光だけであり、3次元の幅(縦×横×高さ)を持つ光は1次元の幅しかない鏡面に当たりようがないからである。つまりn次元鏡面を持つ鏡はn+1次元の世界の空間の向きしか反転させる事は出来ない。2次元鏡面を持つ鏡は(3時元空間(上下・前後・左右)を持つことは出来るが)4次元空間を持てない為、鏡の中の4次元空間で左右の向きを反転させて解消させる事は出来ない。)
従って、鏡の中で対象を左右反転させる事で、鏡の中の世界は(こちらの鏡の外の世界とは違って)左右の向きを持たないのだと主張する事は出来ない。
いずれにしても、「この世界は左右の向きを伴って…空間を持つ」という事を言おうとしても、可能的な世界の出来事の一つとして相対化されて、言いたいことは隠されてしまう。
では「美しさ」はどうか。つまり「この世界は、美しく…空間を持つ!」といったら?しかし鏡の中の可能世界もまた、鏡の外の世界と同じだけの美しさを持つ事になる為、「世界Aは世界Aにとって美しく…空間を持つ」という様に相対化されて隠されてしまう。
なぜ鏡の中と鏡の外は同じだけの美しさを持つといえるのか?鏡の中と鏡の外は左右の向きが違うにも関わらず…。
1つ言える事は、左右が反転したとしても、互いの世界で存在している事実は数的に同一であり、関係性も同じであり、時間的に同時であり(あくまで鏡というのは分かりやすくする為の比喩であり、光は有限の速度だから、鏡の外と鏡の中で成立する事実は時間的に差異があるとか言わない事、つまりここで想定されているのは左右の空間的な向きだけが違う世界なのだから)ただ向きだけが違う世界である。つまり鏡の外と中の互いの世界は左右の向きのだけが違い、世界の事実や関係性には何ら違いはなく同一である以上、鏡の外と中は同じだけの美しさを持つのだと言える。なぜか?もし左右の違いが世界の美しさに違いを生むとすれば、「左右という向き」の限界概念が、「美しさ」という副詞的様態を限界付けており、その逆ではないという事だろう。つまり変わったのは左右だけなのだから、「美しさ」という副詞的様態が「左右の向き」という副詞的様態によって限界付けらている(つまり美しさという副詞的様態は常に左右の向きを持つ)という事だろう。その場合、この美しさは左向きだね/右向きだね、という事が常に言えなければならないという事であり、それ自体で明らかな様にナンセンスである。従って、美しさという限界概念は、左右の向きという限界概念の外側から内在しつつ偏在する様に働き、その逆はないという理由を基に、鏡の中と外の左右の向きだけが違う互いの世界は同じだけの美しさを持つ、という事が主張出来るのである。

いいなと思ったら応援しよう!