24/9/28山括弧塾 清水将吾「現実性概念―私の存在から鏡の世界へ」第一回講義メモ
24/9/28山括弧塾 清水将吾「現実性概念―私の存在から鏡の世界へ」第一回講義メモ
清水氏の主張
・副詞的な様態(美しく、明るく等)は事態に内在しつつ偏在している。
・副詞的な様態の間にはそれぞれ階層性が存在する。(ある副詞的様態は、他の副詞的様態に対して内在しつつ偏在する事が出来る。)
・階層性が異なる副詞的様態の間で内在しつつ偏在する様に働く力は一方通行である。
・最も階層性が高い(つまり一番外側から働く)副詞的様態は「絶対的限界概念」である。
例)「この花は明るく色づいた。」→「明るく」という副詞的様態は、花が色づいた事態に内在しつつ偏在する。
「この花は美しく明るく色づいた。」→「美しく」という副詞的様態は花が明るく色づいた事態に内在しつつ偏在する。
つまり「美しく」という副詞的様態は、「明るく」という副詞的様態にも内在しつつ偏在する(明るくという副詞的様態が、美しくという副詞的様態に参与する)事が出来る。しかし「明るく」という副詞的様態は「美しく」という副詞的様態に内在しつつ偏在する事が出来ない。(「明るく」という副詞的様態が「美しく」という副詞的様態に内在するという事がどういう事なのか理解できない。この明るさや暗さは美しいね、とは言えるが、この美しさは明るいねとか、暗いねとは言えない。)
故に「美しく」という副詞的様態は「明るく」という副詞的様態よりも階層性が高く、階層性が高い副詞的様態(美しく)は階層性が低い副詞的様態(明るく)に内在しつつ偏在する事が出来るが逆は出来ない。従って、階層性の異なる副詞的様態同士の間に働く力(内在しつつ偏在する力)は一方通行である。(階層性が高い方から低い方への参与(参加=paticipate)の方向性はない。従って逆方向も双方向性もない)
そして清水氏は、最も階層性が高い(一番外側で働く副詞的様態である)絶対的限界概念に「美しく」や「現実に」を候補として挙げている。(また「善く」もまた絶対的限界概念ではないかと示唆していた)
しかし、絶対的限界概念は他の全ての副詞的様態に対し、一番外側から内在しつつ偏在する仕方で働くならば、絶対的限界概念が複数存在するというのは不条理だろう(何故なら一つなのに複数存在するとするならば、それらは双方向的に働く事になるが、それは同じ階層性を有しているという事になり、最も階層性が高い(一番外側から働く絶対的限界概念ではなくなるだろう。)
入不二氏も絶対的限界概念について「現に」という現実性は「美しく」や「善く」と同じではなく、さらに一段階(?)異なっているのではないかとコメントしている。
清水氏は引き続き「絶対的限界概念」について説明を行う。
清水氏の主張
・絶対的限界概念の「限界」とは、まったく内容的には違いはない現実的な世界/可能的な世界を区別している様な「限界」の事である。まったく内容的な違いのない現実的な世界から可能的な世界を引いた後に残るのは「無内包の現実性」であり、これが、この世界を(内在しつつ偏在する仕方で)限界づけている。(即ち、それ自身がそれ自身の限界によって、その並列化された(可能的な世界)から区別する。)
(氏はまた、無内包の美というのも在りうると主張する。即ち、それは世界の内容に一切の違いはないが美しくある世界/美しくない世界を、自ら限界づけて区別する様な世界の限界として働いている美である)
しかし、現実性という絶対的限界概念は、自らの世界を限界づける事によって、現実的な世界と他の可能的な世界を区別するに留まるのか?つまり、「無内包の現実性」の絶対的な限界性は単に可能世界と並列化された現実世界の限界=区別に留まるのか?それでは絶対的な限界性、つまり一番外側から内在しつつ偏在する様に働く力ではなく、可能世界と現実世界を区別する境界になってしまう。(一番外側の絶対的限界性は単なる境界=区別とは違う)
入不二氏もまたこうコメントしている
空間の中心性と方向性について
清水氏は、空間は単に広がりをもつ(延長)だけではなく、空間にはそこに内在しつつ偏在する仕方で参与している副詞的様態があるとして次のものを挙げている。
・中心性
・向き=左右
中心性とは、空間がある対象を中心として広がっているという事、そしてさらに、単にそこを中心として広がりをもつだけでなく、空間には向き=左右の区別を持つという事である*。
*向きが、上下でも前後でもなく「左右」であるのは、上下が違うだけの2つの物、あるいは前後が違うだけの2の物は、この3次元空間において重ね合わせる(1つにする)事が出来るからである。しかし、左右の向きが異なるものは重ね合わせる事が出来ない。それは本質的にも構造的にもまったく同一の物なのだが、重ね合わせる事が出来ない、つまり向き(左右)だけが違う、空間的な違いとしか言えないような違いである。(右手の手袋と左手の手袋は本質的にも構造的にもまったく同じものだが、右手の手袋を左手にはめる事はこの3次元空間では出来ない(もし4次元空間において手袋を左右反転させる事が出来るなら右手の手袋を左手にはめる事も出来る、つまり鏡の中に映る左右反転させた右手の手袋をもし取り出す事が出来たのなら左手にはめる事は出来る。)
これは「ありがとうございます」の鏡文字であり、意味も文字構造もまったく同一だが、空間的(左右の向き)にのみ異なる(重なり合わない)文字である。従って鏡に映して左右反転させると「ありがとうございます」という文字と重ね合わせる事が出来る。
限界概念の語り得なさ
・中心性という限界概念はこの空間の限界まで偏在しつつ内在しており、それ自身がそれ自身を限界づける事によって、この現実空間と実在的な違いの無い可能空間を区別する様に限界づける。
しかし、この世界は現にこの身体Sを中心として空間をもつ(何故だかそうなっている!)、この事実を言語で語ろうとすると、それは「SにとってSを中心として空間が広がっている」、或いは、「Sを中心としてSは経験を持つ」という様に可能的な事態の内の一つとして伝達されてしまい、現に何故だかそうなっている!この世界の事実は隠されてしまう(SはA,B,Cなど他の身体に置き換え可能となる)。
言語は可能世界でも成立している様な事しか伝達する事が出来ず、ただこの現実にだけ成立している事実を伝えようとすると隠されてしまう(言語の根源的演技性)。