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中之島香雪美術館と「最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム」

朝日新聞の創業者の村山龍平の孫で近所に住まれていて去年亡くなった美知子さんの本を読んだのでどうしても中之島香雪美術館へ行きたくなった。
その本は、樋田 毅著「最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム。」


著者は朝日新聞の記者で、赤報隊の朝日新聞襲撃事件取材班キャップを務めた後、大阪局より村山家の秘書として美知子さんの晩年、亡くなるまでの5年間勤めた人。この本を出版する時に朝日新聞を辞めた。
本の内容は、朝日新聞社主の村山龍平氏がどのように地方のしがない新聞社を大新聞(朝日が言うところのクォリティペーパー)にしたか。そんな村山龍平氏の御影での暮らしと一人娘への英才教育。学校へは行かせず龍平が認めた京大とかの教授が家に来て教育したらしい。
その娘婿の社長就任と朝日新聞内の確執とお家騒動からの社長解任。2人の孫、特に長女の美知子さんについてと彼女の持っていた36.5%の朝日新聞株式の行方。
秘書だった著書は最初は美知子さんと村山家の動向を探るために朝日新聞から送り込まれるんやけど、美知子さんの気品と交友と暮らしぶりに圧倒されて美知子さんを好きになってミイラ取りがミイラになるんよね。朝日新聞はこの著者だけでなく代々、社主の秘書を大阪局から送りこんで御用聞きとスパイをさせていた。まー、36.5%もの株を持たれてたら気が気じゃないよね。
うちの近所の一区画の村山家は塀と森の木々に囲まれていて(地図で見るとそこは雑木林の地図記号になっている)、外からは洋館の屋根と煙突ぐらいしか伺い知ることはできない。その中に洋館だけでなく玄関棟、書院、お茶室二つ他にも沢山の建物があって、それが全て渡り廊下で繋がっているらしい。他にも村山龍平を祀った祠みたいなのがあってそこまで村山邸に居る人はどんな日もお参りに行くらしい。そういう全ての明治から大正の豪邸での暮らしぶりが重要文化財になったとのこと。

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Google mapより↑

これが、京都や奈良の代々のお家なら理解しやすいんやけど、村山さんは伊勢の下級藩士の生まれで一代で成功を収めた人で、それでもう神話みたいになってるところが面白いよね。松下幸之助ももちろんそうだし、近所でも大林さんとこの多宝塔とか、西武の堤家とか大成功すると人間は権現になってまうねんなー、などと考える。
それにしても私はこの辺りに住んで10年を超えるけど、最初のあたりはこの塀を越えたところに浮世離れした方が住んでいて浮世離れした時間が流れていたんやなーと思うと面白いし、私が想像した以上の大きさと数の建築群がそこにあったというのを中之島香雪美術館の建築模型で初めて知って、素直にへーーーーっ知らんかったーー!って思った。
その建築群の二つのお茶室を含めた日本建築は、お茶事を通しての接待のために使われていて、その話は昔の大名みたいだった。今でも政治や商売のツールとしてお茶会を使っている人たちはいるんだろうか。
そう言えば、近くを通った時に一年に一度、リーガロイヤルホテルのケータリングのトラックが何台も止まってる日があって、本を読むとその日は村山龍平氏の命日の日らしかった。その時はお茶室や日本建築をを使いお茶事が行われていて、その後、洋館などでパーティーが行われていたらしい。

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そんな時に朝日新聞の役員らも呼ばれて参加して、ほほ、お茶室で足が痺れて歩けなかったんですわよ、などと美知子さん言われて笑われていたんだって。

お茶室の一つは藪内家にある超有名なお茶室の写しでそれが一般の弟子の家にあるというのはすごいことらしい。で、その写しの写しが中之島の香雪美術館の中に作られてあった。

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あったけど。。。その周りの木々はともかく、御影やのに御影石などの石がプラの模造品でそれ故全てがペラペラに見えたわ。

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美知子さんは御影石についてすごい研究していてすごい目を持っていた(両親の墓石や朝日新聞の記念碑などの御影石の選別にすごい心を砕いた話がある)と書かれていたのに、これ見たら怒ったやろなーと思ったわ。去年亡くなられて、入院を長くしてたので完成は見てないらしい。同じ石を作るのは無理とは思うけど、プラはなぁ。。。(御影石は村山家のある御影の特産品である)
本の最後は、その36.5%の株の行方。私はそこはあんまり熱く読まなかったけど、ホリエモンとか村上ファンドの頃にメディア王のマードックに乗っ取られるのでは?みたいになった時に朝日側が躍起になって、そして美知子さんのの体力も衰えてきて、最終、半分を朝日放送に半分と土地建物を香雪美術館に寄付して、朝日新聞が、香雪美術館を未来永劫かしらんけど世話していくことになったみたい。著者はそのやり口に憤慨していた。でも、重要文化財として保存された事で近所の森が森のままなのは私にとってはいいことなのだ。
さて、美知子さんには子供がおらず、妹に甥が1人いるだけ。もし子供が居たらまた違う株の流れになったんだと思うわ。美知子さんにとっては、御影の屋敷と香雪美術館が子供のようなものだろうから続いていくことに心を砕いたんやろねえ。

その御影の香雪美術館、廃仏毀釈からの岡倉天心やねんけど、岡倉天心が作ってた「国華」って日本美術の雑誌があって、それがうまくいかなくて助けたのが村山龍平氏やったらしい。それで岡倉天心とかから日本美術の危機を知って習って教えてもらったりして数寄者になっていきそれが香雪美術館となったというこというのを中之島の香雪美術館で知った。その「国華」は今も朝日新聞から出版されている。


御影の香雪美術館のお庭の公開には何度か落選してるけどこコロナが明けたら何度もチャレンジしてみようと思うわ。ほんまに遠くて近いご近所やからいつか見せてもらいたいなあ。

21.6.1


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