大きな遊びと小さな遊び
遊びに行こうって、公園やキャンプに連れて行くのは、「小さな遊び」。
日常生活の中で人の中から湧き出てくるのは、「大きな遊び」。
逆じゃない?って思いますか。
日々の生活の中で、
子どもたちがいろいろな感情にまみれながら、
生きるということを覚えていく。
その営みの中に、小さな発見や大きな発見があって、
これまでに知らなかったことを知り、
新しいことに気がつき、
挑戦してみたり、やり直してみたりする。
それは、遊びと学びと育ちの坩堝(るつぼ)のような場。
大人はそれをすぐに忘れて、
赤ちゃんの頃から、
この玩具を与えよう、とか、
遊び場に連れて行こう、とか、
これをすれば学力や非認知能力、社会情動的力がつきます、とか、
「分ける」ことを始める。
それが子どもたちにとっていいことだと「分かった」気になって。
子どもたちにそんな区別はないのだけれど、
「遊んでばかりいてはいけません」「何してるの?!」と言われて、
あ、これは「遊び」なんだ、今しちゃいけないんだ、
これは自分を育てている人にとって嫌なことなんだ、
ということも学んでいく。
そして、公園、遊び場、の中でだったら、
「ここまでしていい」ということを学んで、
それ以外の場では、
「ここからはしてはいけない」ということを学んでいく。
わたしんちは雨の日に外に出てもいいけど、
あの子んちは雨の日は家の中にいないといけないんだ、とか、
それでも、雨の日なら水で遊んでいいけれど、
晴れの日に水道の水を出しっぱなしにしていてはいけないんだ、とか、
公園の水を飛ばすと近所の人に怒られるけれど、
川でバシャバシャするのは大人もちょっと喜ぶんだ、とか。
「さあ、楽しく遊びましょう」って言われて、
これは「楽しいことなんだ」って、自分の感情の認識を間違えていく。
だから、大人が「それしててもいいよ」と片目をつぶっていてくれたり、
安全に思い切り遊べるようにちょっと工夫してくれたりすると、
「ダメなんだ」とか「ここまでなんだ」とか思わずに、
どんどん世界を広げていくことができるようになる。
その制限の幅が広い場が、
(本当は、大人の目が届かない安全な場が)
家の近くの自分で歩いていけるところにあるかどうかって
子どもにとってすごく大事。
家の中が苦しくても地獄でも、学校が辛くても、
近くに公園があったら、そこに行ける。
大きな公園に、親が連れて行ってくれる子どもばかりじゃない。
入場料が払える家庭ばかりじゃない。
車で行ける大型の遊び場が立派なよりも、
小さくても遊べる都市公園が近くにいくつもあることの方が
(いくつもあるのに、全然遊びたくないようなのばっかり)
ずうっっっと大事なんだけど、
政治家さんは、選挙の時に、
大型公園を作りますってマニュフェストに書いちゃうし、
行政の子ども子育て計画にもそう書いてあって、
住民はそれを喜んだりする。
いやいや、子どもの育ちと将来にとって「大きい」のは、日常。
たまーにいく遊園地とか、
大きな駐車場がついた、ウェブサイトまである立派な公園とか、
素晴らしい自然環境のキャンプ場とか、
それは「昭和」以前の、
毎日、路地で遊べた大人たちのあこがれの場所で、
今の子どもたちに必要なのは、
日常の中の遊び(どうやって予算つけるか?)。
ぶらぶらしている暇な人の姿(どうしたら暇になるか?)。
それがないから、子どもたちは小さな画面の中に入っていく。
子どもたちに「大きな遊び」の土台を保障した上で
小さ過ぎない「小さな遊び」の場を提供したい。
写真は、現代日本の遊びについての深い思索にもとづく
『遊びの生まれる場所 「お客様」時代の公共マネジメント』(西川正著 ころから)と
生活と遊びがごろごろ一緒になっている世界を描いたイギリスの児童文学。アーミテージ家のお話。脳の中が遊びだす本。
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