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日本の公立小学校のあり方を考えるきっかけとしての「小学校~それは小さな社会~」

1月12日に、『小学校〜それは小さな社会〜』・・・
英題:日本人の作り方、を見てきました。
#ネタバレ  なので、読まれる方は、ご了承ください。
多くの方がいろいろ書いているので、冷や冷やしますが・・・

✳︎ タイトルを変えました。

1)たくさんのメガネで見てみたい

それにしても note にもたくさんの「見てきました」投稿が。
それだけ、いまの日本人は「学校」のあり方に良くも悪くも着目しているのだなあと思います。コメントはポジ・ネガが拮抗している感じ。
だから、そういうコメントを踏まえて、いろいろな側面から、

 バランスよく見たい映画です。
 絶賛でも否定でもなく。

特定の一つのエピソードや登場人物をいい悪いというのではなく、
全体で何が見えてくるのか、
それを議論したい、いろいろな見方で対話したいと思う内容です。

いい講演は、終わった後に参加者がその場に残っておしゃべりしていることが多いです。この映画も、見終わった後に感想をみんなが言いたくなる映画です。監督もそうなることを意図して作られたのだと思います。

2)子どもは学校で作られる?じゃ、それ以外の時間はどうなってるの?

まず、学校は一日のうち8時間、睡眠が8時間(小学生など+1~2時間)とすると、残りの起きている時間である8時間(-1~2時間)をどう過ごすかは、本来、家庭の決めること。

学校が3分の1だとしたら、たとえば、3分の1の学校がもしきちんとし過ぎる場であれば、3分の1の家庭は少し緩める、楽しくする。学校がちゃらんぽらんだったら、家庭は少し締める、厳しくする、など、調整はある程度、家庭でできるはずだったんです、かつては。だから、学校がどうこうって、それで子どもたちのすべてが決まるわけではないということを、私たちは忘れてはいけないのではないかと思います。

一方で、多くの日本人にとって、いまの日本の学校は、実際は一日の3分の1以上の重さを持ってしまっていて、そうなるとそこに突っ込むのが手っ取り早く子どもたちに何かを伝えることができるから、雪だるま式に学校に何でも突っ込むようになってしまいました。だからまたさらに、学校のことが家の中にはみ出してきて、学校の準備を家の中でする…親が手伝う…親が面倒を見るのが前提…になってしまう。

学校なんて行かなくてもいい、ということもできるけれど、でも、他の選択肢が少なすぎて、子どもたちからは見えない、手の届かないところにあるから、現実のところ、子どもたちに対して大きな影響力を持つ場であることは事実なのです。

しかも、宿題という「残業」で、学校が家庭の時間を横取りするのはどうかと思うんですが、スマホゲームをやらせておくよりはいいとか、一人っ子で間が持たないとかで、家庭の中の時間を埋めるために宿題出して~というのが、広がってしまっているし💦。

兄弟も少ないし、遊べる友達も空間も地域から消えて、子どもの時間は、学校の中、下手をすると学級の中だけでできている状態(あとは、学童と塾、これも下手をすると、学校の下請け)。

だから、まず、日本の学校を、学校に対する大人たちの意識を、もっと軽くできないかなあと思いました。日本では、長い間、学校がそれなりに機能していたから、みんな頼り切ってしまうようになったんでしょうね。

日本人が、学校だけで作られるのではなくて、家庭だけでもなくて、地域や学校とつながっていないところとか、その他のごちゃっとした社会の中で作られると思えるといいのになあ、そんなことを考えました。

 日本人の作り方(地域版)という映画を作れるかなあ。
 あの地域ならできるかな?どんな映画になるんだろう??
って考えました。

3)悪くない学校の基準って?
私は、国内外で数百を下らない学校を見てきました。公立も私立もフリースクールもオルタナティブスクールも含めてです。小中高校に加えて、それ以外の多様な種類の学校も。その上で、私は、この小学校はいいなあと思いました。

なぜかというと、先生たちの「細かく厳しい」行動に、それなりの理由があって、それがちゃんと生徒に伝えらえていたからです。なぜこの人はその言動をしたか、その説明を映像は丁寧に撮っていました。

それが生徒たちに伝わっていない、あるいは伝えられていないことが実際、他の学校では多いのではないかと思います。しかもその理由が生徒たちからは到底納得できないようなものだったり、有無を言わさないから反論できなかったり。

コロナ禍では、給食のときに衝立を立てて黙食をしなければなりませんでした。それはこの学校のせいではありません。林間学校に行けないのも、学校のせいではなかった。だから、そこは「ここでは」議論から外します。そこからひっかかってしまうと、そこがしんどいと感じてしまうと(私は感じるのですが)、もう日本の学校はほぼ全滅ですから。この映画の話ではなくなってしまいます。ですので、その議論は別の機会に回したいと思います。

これまで、私は、理不尽なこと、納得がいかないことをする、しかも一度決めたことを決して変えようとはしない残念な学校と先生に出会ってきました。

だから、この映画の学校が日本の普通の学校の姿だと書いておられる方が少なからずいらっしゃるのは、私の見てきた学校から得た実感とはちょっと違う気がします。
 
※ 自分自身も、大学教員として自分なりに精一杯取り組んでいましたが、学生の立場からすればひどいなあと受け止められて当然なこともしてきてしまったと自覚しています。だから、他人事としては語れないと思っています。恥ずかしいけれど、そういう前提の上でのコメントです。

公立はもちろんのこと、オルタナティブスクール、フリースクール、新旧のタイプのさまざまな学校の中に、

 これでは生徒が育たないという学校、
 お金をかけているけれど内実が伴っていない学校、
 前評判やウェブサイトと中身が違い過ぎる学校、
 運営している大人たちはいいと思ってやっているようだけれど、これで子どもたちはどうなの?という学校   

が少なからずありました。

そういう学校に比べて、映画に出てきた公立小学校は、よい意味で、日本の学校が大切にしようとしてきたことを丁寧に実行しようと努力し続けている学校だったと思います。子どもたちを傷つけていても気づかない先生たちでなければ、もうそれだけで私は公立校として合格だと思いますから、この学校は二重丸なんです。
(映画撮影を引き受けた先生方には、感謝しかありません。オルタナティブな学校であれば、宣伝にもなる。主張を伝える場にもなる。でも、公立ではそういうメリットはほぼありません。批判も出ることは想定されるのに、その上できっと、公立学校の良さを伝えたいと皆さんで決めたのでしょう)

一方、「組織は中から壊れる。壊れないようにふるまって行こう」と檄を飛ばしている職員会議。学校という場が先生たちにとっても、緊張を強いられ、一致団結を求められる組織になっていることもうかがえます。その中で子どもたちにはやわらかく接しようという努力をしていることも伝わってきます。涙ぐましいまでの努力。だからこそ、子どもたちの成長がうれしくて、がんばってしまう。

私はそういう日本の先生たち、大人たちの姿を、生徒たちはしっかりと見て、考えていると思います。そして、そのことが何よりも大事だと思いました。映像の中には、先生たちの想いと生徒たちの受け止め方の両方が描かれていて、そこにずれが少ない部分が選ばれているから、安心してみていられたのだと思います。

4)フォトランゲージ
もちろん、ここに写り込んでいないさまざまな物語やシーンがあったと思います。学校に行けなかったり、ルールに苦しんでいたりする子どもたちもいたかもしれません。世田谷区の6年生ともなれば、受験の問題もきっとあったでしょう。それは映画からはわからないようになっていますので、そこについて、私は何も語れないです。
 
ただ、私もよく学校に行って写真を撮ってくるので思うのですが、どういうシーンをどう切り取るかは(監督の要請や指示の下にではあるけれど)
カメラマンの判断することです。
その視点がそもそもよくなければ、監督はその中からしかシーンを選べません。
 真っ直ぐ並べられた机が新一年生を待つところ。
 檻の中のウサギ。
 大人になると感じてしまうから卒業は嫌だという男子生徒。
 大きなモニターにあと何分何秒で給食時間が終わると映し出されている教室で、時間内に食べること、早く食べ終わることが大事と生徒たちに認識されているところ。
 旅館でまで、コロナ禍でまっすぐ前を向いたままの食事。
 皆は心臓の一部で、一人ズレたら完成しない、という美しいセリフと、そのために動けなくなる生徒が出るような緊張感の場面。

 そんなところも描かれています。
 
幸い、トークショーに、監督が2年かけて探し出したという角来カメラマンが来てくださっている回でしたので、トークを聞くことができましたし、直接ご挨拶させていただくこともできました。こういう機会がなければ、私は監督に注視し過ぎて、イベントのとき以外はほぼこの映像を一人で撮り続けた角来さんの視点について考えることがなかったかもしれません。興味深いシーンをたくさん撮っておられました。何をどう撮ろうと思っていたのか、どこが採用されて、どこが採用されなかったのか、もっと具体的にお話しをうかがいたかったと思いました。ただ、言えることは、切り取った部分に対するセンスが、私は好きだったということです。

5)監督の伝えたいこと
 山崎エマ監督は、むっちゃトークうまいです。芯の通った利発な方でした。アメリカで映画製作のトレーニングを受けてきたとのことですが、どんなトレーニングだったのだろうと思いました。

受け入れてくれる学校を探して、カメラマンを探して、撮影開始の2か月前から学校に入って、「自分たちが環境の一部になる」「新1年生が通っている保育園から入っていた」という努力を重ねての4月当初からの撮影。
そして途中での妊娠(ということは、赤ちゃんが家にいてのトーク?)。

撮影にはもちろんいろいろな挑戦があったと思いますが、彼女が言いたかったことは私もいつも言いたいと思っていたこと…つまり、

日本の学校の先生方の教員としての力量を尊重し、次の世代に伝え、生かさなければならない

だったので、とても共感できました。

学校は急には変われないと思います。
古いものを一掃してしまうと、気づかずに一緒に大事なものまで捨ててしまうことになるでしょう。副作用が出ます。
何を大切にして、何を変えていくか。その議論が必要だと思います。

オランダの学校が変わっていくときに、
方法1) 古い先生8 新しい方法を学んだ新しい先生2 の割合で少しずつ変えていった。
方法2) 一年生から順に6年かけて変えていった
方法3) 先生たちが長期休暇に、別の方法の研修に順に行って、先に言った先生から順に変えていった。
と聞きました。今、日本でそういうふうにやっているところを聞きません。
難しいでしょうか。

ちなみに、私は整えられ過ぎている入学式も卒業式も運動会も大の苦手です。とても見ていられないことが多いです。
怒鳴り散らす先生、主人公である生徒ではなくて地域の重鎮が壇上に並ぶ式典、必要と思えない緊張感。自分たちのものでない言葉の羅列。
でも、この映画では、その抵抗感をほとんど感じませんでした。切り取り方のせい、だったのかどうか。

「教員はブラックだと言われていますけれども、その空気感を作っていていいのでしょうか。先生たちは敵ではありません。目的は一緒だと思います。未来を作っていく子たちと先生と、みんな人間です。大変だよねと声をかけたい」と監督。

実際には、日本の中に既に敵対関係になってしまった先生と親子がいて、その親子からしてみれば、そんな甘いことは許されない、ということもあるでしょう。私もこれまでたくさんのため息をついてきました。あり得ない!と叫んだことも何回もあります。でも一方で、逆に感嘆のため息もついてきたのです。学校を一括りにはできないし、どうしてそうなってしまったか、これからどうすればいいのかを共に考えなければ、狭間に落ちてしまうのは子どもたちです。

この学校の先生方は、自信満々なわけではなく、悩みながらも、これなぜ?が明確な指導をしておられました。そのことをきちんと映画にしてくださったことに感謝したいと思います。

海外の学校を絶賛して日本の学校をこき下ろすとか、その逆をするとか、従来型の学校を否定して新しいことをやっているけれど的外れとか、そういう極端なことをしがちな私たちに、それちょっと変ですよ、と教えてくれる映画だと思います。

※ 米国の映画、Most Likely to Succeed の上昇志向の解説がついた内容を観ていることに耐えられなかった私です(のちに、実際の学校はそんな校風ではないと聞きました。映画がそうであっただけ、かもしれません)が、
この映画で、周囲との関係の中で自分が行動していけるようにしようね、というメッセージを先生たちが投げていることについては、抵抗がありませんでした。

※ ちなみに、学校は、大衆文化、市民文化に支えられています。だから、文化の質が高くないと、学校もおかしくなります。学校批判をする場合には、その学校を支えている地域の文化や家庭の子育ての質を踏まえる必要があり、それを形成している人々の中に自分もいるということを認識する必要があると私は思います。

※ 日本の大変な学校、変な授業、とんでもない先生も知っているので、そこは曰く言い難いところなのですが、教員でもない限り、みなさん、自分の経験した学校体験だけで学校を語ることが多いなあと思います。この映画も、いろいろな方の感想を読んでいると、自分の体験と重ね合わせて、部分的なところに反応してしまっている傾向があるように思います。

6)日本人の作り方
観る前に、この映画はどうか?というコメントをたくさん読んでいました。日本の学校はこんなに問題山積なのに、この時期にこれだけ問題がある日本の教育がいいなんていう映画を絶賛するなんてという嘆きの声が私に届いていました。一緒に怒ってほしいとも、見なくていいかもとも、耐えられないかもしれないよとも、聞きました。

そこで、これまでたくさんの残念な学校も視察してきた経験のある自分としては、また同じようなシーンを見るだけになるのだろうか、そしてそのことを書くことになるのだろうかと少々不安な気持ちでした。でも、自分が観ないで何かを語るのはいけないなあと思って、重い足を引きずって出かけたわけです。

そして、びっくりしました。長い滞在時間の中の撮影1500時間の中の2時間の切り取りですから、当然、監督が見せたいところだけ出てきているわけですが、全体を見てきちんとふるまおうとする日本人の作り方が、きれいに描かれていました! 不登校や特別支援やさまざまな問題点は、さんざんほかで取り上げられているから、この映画では取り上げなかったと山崎監督。そうではなくて、普通に日本のいいところを紹介したかったと。

そのいいところが、息苦しいところだというコメントはもちろんあって当然だと思います。規律を守る、ハーモニーを大事にする、時間を守る、みんなと行動を揃えるというのは、個人の活動の制限ですから。

それについては、こちらの投稿が、今の私の感じにピッタリ来ています。
この方は知り合いではないのですが、とてもうまく表現なさっておられるなあと思いましたので、シェアさせていただきます。

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Posted by 古野 香織 on Saturday, January 4, 2025

7)靴を揃えることの意味するところ
それに対して、いまの時代は、もっと自由に、という流れがあって、軍隊みたいにみんな揃えるのは時代錯誤だと言われるわけです。

私も映画を見る前には、「いざ」という避難のときに、てんでんこでこそ生き残ることができるということを思い出して、どうなんだろう?と思っていました。

でも、そこで起きていたことは、先生たちが生徒たちに、「自分で気働きのできる人になりなさい。人のことを考え、自分のことも考え、きちんと生きていきなさい」というメッセージを伝えることでした。単に先生の言うことを何も考えずに聞くロボットを育てているわけではなく、意味なく靴やスリッパを揃えているのでもなかったと私には思えましたが、どうでしょうか。

※ 靴をどこまで揃えるか、というようなことになると、どうしても末端では「ここまでは不要でしょう?」という方向にどんどん行ってしまう傾向は生じると思います。その辺りに、「よい加減さ」があったのかどうかは、この映画ではわからず、むしろ細部にこだわるシーンが採用されていたのは、監督が議論を生むために意図的に入れたのだと私は思いました。

ただ、靴を揃えるのは、「靴を脱ぐ習慣のある日本の文化」です。

10年以上前にうかがった、70歳を超えた老婦人の話です。
子どもたちが家に遊びに来たときに、靴を揃えなさいと言うのは、
万一火事が起きたときに玄関に靴が揃っていたらすぐに履いて逃げることができるけれど、裸足で逃げなければならないと危険だと。

私の母も伊勢湾台風を経験して、服は枕元に畳んで置いて寝ること、靴だけはきちんとすぐに履いて出られるようにしておくこと、を口を酸っぱくして言っていました。

武士も屋敷に入るとき、草履は脱がなければならない。
でも、急に敵がきたら?
すぐに履物がはけるように置く、という礼法が生まれた由来だそうです。
豊臣秀吉の逸話もありますよね。

日本には、そういう文化があるのだろうと思います。それが形式的になっているか、その意味をしっかりと考えて取り組むか、というところで、大きな違いが出てくるのだけれど、「揃える」ことには意味がある、と私には思えます。

ですので、ここはこの映画の議論のしどころだと思います。

先生たちは現代社会に生きながら、平均台の上を歩くような思いで、バランスを考えながら、子どもたちを育てて中学校に送ろうとしている。
子どもたちがこの日本で路頭に迷うことのないように、人に余計な迷惑をかけないように育てようとしている。親もまた、それに協力している。生徒は放送でルールを流している一方で、子どもらしい遊びもしている。
そういう背景も映像で説明しています。

7)子どもが自分の行動の責任を取ること
途中で女の子が叱られる場面がありました。それについて、友だちたちの前で、理由も聞かずに、あんな風に叱らなくてもいいではないか、というコメントがいくつかありました(理由を聞いたかどうかは、カットされているかもしれないので、私たちにはわかりません。カットはされていないと思いますけれど)。

でも、叱られる場面の前の段階で、彼女はオーディションを受けていて、そのときには自分がオーディションに受かるために必死に練習をしていたのに、受かったら練習を止めてしまっていた、というストーリーがありました。それは、みんなも知っていたわけです。

(追記:しかもこの女の子はよく泣いてしまう一年生のようで、その前の段階で既に母親を心配して泣いている場面があります。どうしてこの場面を使うのかな?と思っていたら、その子がここでまた泣いたのでした。小学一年生の中には、しばしばこのように学校という集団の中でよく泣いてしまう子がいます。この子がずうっと家庭の中にいたら、「泣く」という行動の修正は難しいかもしれません。この辺りのことについては、こちらの亘理陽一氏の論考がわかりやすいでしょう)

練習をしてこなかった彼女のために、全体の練習が滞る、その時間、みんなが付き合わされる。その責任を彼女は自分で負うように迫られます。

「今日だけだよ、これからはしっかり練習して来なさい」と言って楽譜を貸すという選択肢もあったと思います。これはむしろ非常に日本的な解決策のように思います。

私には何が正解とは言えませんが、やらなかったことの責任、持ってこなかったことの責任は彼女が負わなければならないと思います。
自律(オートノミー)の練習とはそういうことでしょう。
欧州の小学校で見てきた教育場面はそうでした。
自由度を高くするからこそ、自分で責任を取る訓練もしていました。
そこが日本に伝わっていないように思います。

失敗はするものです。サボることもあるでしょう。それに対して、そのこと、つまり練習をしてこなかったことの責任を先生が負うのではなく、先生も又つき合いつつ、一人の人として、彼女が負う、わけです。
日本では得てしてその責任を先生が負ってしまいます。

自分でその役をやりたいと言ったのですから、一度ゲットした役を降りるかどうかの選択をさせて、その選択に基づいた行動を彼女が取る。大人が全てを引き受けてはいけない責任だと私は思います。彼女が泣いているから可哀そうという問題ではないと思います。

全体練習の場で、彼女が練習をしてこなくて「できない」ことは、
シンバルの大きな音を出す練習なのだから、皆が気づける状態にいて、
それを一人だけ別に呼んで叱る、ということも難しい状況でした。

さらに、この女の子には友だちたちがついていて、このエピソードの後で、支えようとしてくれています。そういう関係性が学級、学校にあるのです。ここで、「お前が悪い」というようなことになる学校ではない、先生たちはそういう学校を作ってきてはいないということが大事なのだと思います。

この場面は、きっと海外でわがまま勝手を言う子どもたちに悩まされている大人たちに感心された場面だと思います。あの場で、先生はどうすればよかったのか、どうすれば、女の子の今後にとってよかったのか。私はあの先生を批判する方にうかがって、また話し合ってみたいです。

8)集団生活の中の規律
また、たとえば、体育の授業の遅刻。もし、体育の授業がふわ~っとしたもので、来ても来なくてもいいような感じの授業であれば、遅刻してもいいでしょう。自分がその授業を受けないと損な楽しい授業、であれば、みんな早く集まるので、その授業が魅力がなかったのかもしれません。また、お腹が痛くてトイレに行っていた、という理由があれば、それはそれで仕方がないでしょう。

そういういろいろな可能性を考えた上で、でも、わたしは、格段の理由がない遅刻は、先生にとっては「無事だろうかという心配」「授業を始められない(例えば、ケガをしないための注意を最初にする予定かもしれない)」といった、いくつかの問題を生じるだろうなあと思います。

(小さな学校であれば、そのような不安は少なくなるし、用務員さん(学校技術員さん)含めた学校全体のスタッフが子どもたちを把握できるような学校…であれば、ふらふらしている子がいても問題ないと思います)

もしそれで何かが起きたとしたら、その責任を真っ先に問われるのは先生でしょう。その責任を先生に負わせるのは、酷だなあと思います。
「二十四の瞳」位の小さな学校で、みんなの状況がわかっている中であれば、許されるかもしれない遅刻、とは残念ながら状況が異なるように思います。

ただ、そこで先生が生徒たちにかけた言葉は、「心が一つになっていない」でした。これはちょっと不用意な言葉だったかな、そんなこと言う必要も根拠もないなあと私も思いました。でも、日々の生活の中で、そうあってほしいという先生の理想主義的な願いが出てしまう、というのはあるなあと思いますので、それをどうこういうのもなんだかなあと思います(その場面をあえて採用したのも、きっと議論を期待してのことでしょう)。

さて、さらに加えて言えば、国によっては遅刻が問題にならないことがあります。そういう国(結構ある)であればいいでしょう。よく遅刻してしまう私は、5時間遅刻しても、なんなら行かなくても別に気にされない国のことを知ったとき、いいなあと思いましたもの。

でも、日本は、山手線が2分に1本確実に来て、前の電車とぶつかることがない。それをあたりまえに享受している国なのです。縫製がしっかりした服を販売できる国なのです。不良品があったら、すぐに交換してもらえる国なのです。土日祝日もお店が開いている国なのです。その国で生きていく日本人の作り方を描いた映画なのだから、こういう場面は当然あるだろうし、それが、かつて私が見てきたような、ヒドイと言えるほどの叱責になっていないことに、むしろちょっとほっとしたのでした。

9)終わりに
だいぶ長くなりました。10000字超え!!
実は上映中+トーク中に、真っ暗な中で、A4にすると5枚分になるメモを取りました。一つ一つのエピソードについて書いていると、まだまだ長くなってしまいそうなので、ここで筆をおきます。
 
寸分違いなくまっ直に並べられた机。
廊下の片側を整然と歩く子どもたち。
   を恐ろしい光景と思うのか。
乱雑な机に散乱する持ち物。
授業中にロッカーの上で鬼ごっこする子どもたち。
   を何とかしたいと思うのか。
主体的になりなさいと説教されて、自ら探索的に学ぶ子どもたち。
   をニヒルに見るのか。

・どちらがいい、どちらが好きという議論をするのか。
・どういうときにどういうふるまいができるといいという条件を探すのか。 
・いろいろな育て方が併存しているといいと考えるのか。
・いい学校を一つ作るのか。最悪の学校をなくすのか。

学校教育について議論を始めると、キリがないのだと思います。

こんなふうに62歳まで生きてきた自分と、かつて同じ学校で破天荒に学んだ多種多様な友人たちのことを考えると、どういう学校がいいなんてことは、誰にも言えないんじゃないかな、と実は私は思っています。

そして、最初に書いたように、実は、
  日本人は、学校だけで作られているわけではない、
とも思っています。

ただ、
いい学校、は私には言えないけれど、
「ダメな学校」は言わなければならないと思っています。
つまり、
子どもが傷つく、子どもの尊厳を大切にしない、大人と子どもが対等でない、子どもが死にたくなるようなことが起きている。

そういうエデュケーショナル・マルトリートメントが横行している学校は、
絶対に変えていかなければならないと思っています。

この映画は、いろいろな人の気持ちを引き出して、考えさせてくれる映画です。だから、見てよかったな、と思っています。

※ 1月25日にこの映画について話し合うオンラインの会があるので、それに参加すると、また別の視点が出てくるかもしれないと思っています。
その前に、現時点での感想を書いておこうと思いました。考えはどんどん変わっていくもの。楽しみにしています。


※ 小学校一年生に手の挙げ方を教えるところからして問題。というコメントもいただきました。うーん。そうですね。私もちょっと思ったけれど、40人子どもがいて、一斉授業をするなら、先生としてはしっかり前から見えるように手をあげてほしいと思うだろうなあ。一斉授業をしない、という選択肢まで含めて考えるとしたら、いろいろな工夫ができるのだけれど・・・う~~ん。もうちょっと考えたい。
 自然スクールトエック(行ったことがないので、書いていいのかどうかわかりませんが)のような学校で「大人役割」ができる人を日本中で育てられればいいなあと思いました。

✳︎ もう一つ追記です。
 女の子の叱られる場面がニューヨークタイムズでも取り上げられていますね。批判されやすい場面です。
 フォローは皆が十分していたと思います。学校というところは一対一でないからいいのだなあと私は思ってみていました。あの先生怖かったよね!と友だちに言われながら自分で考えるからいいのではありませんか?先生も考えたと思います。少なくとも私はあの先生以上に対応できるいい先生である自信はありません。大人も何か家庭であったあとかもしれません。金八先生みたいに演じているドラマではないのです。あの先生、皆に相当言われていると思います。保護者たちの目は先生を射ます。先生たちを育てる保護者が今、日本には必要だと思います。
それに、先生への評価の目が厳しいと、今度は先生の成り手がなくなりませんか?ドキュメンタリー映画に協力してくれるところもなくなりませんか?

学校を追い込んで閉じさせてきたのは社会ではありませんか?

※ こちら、書いた後で読んで、参考になるなと思ったので、自分用の備忘録としてここにメモ。

#小学校 #映画 #小さな社会 #エデュケーショナル・マルトリートメント #日本文化 #山崎エマ #一般社団法人ジェイス    
 

 

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