利己的な遺伝子を読みつつ

10年ぶりに利己的な遺伝子を読んでいます。

出版は1976年。ほぼ半世紀前の書籍です。

この本は、遺伝子は遺伝子自身のコピーを作るために利己的な行動を選択していくというのと、
目の前の利益をとることよりも利益を先延ばしにし利他的に行動するという選択肢を持ちうるミームについて書かれています。

とてもおもしろい本です。

この本を読んでいて思ったのが、
遺伝子に記憶を複製する能力はなぜないんだろう、ということ。

遺伝子には個々人の小さな差はさておき、
人間としての形状をほぼ完璧にコピーしていく能力があります。

こうやって生きていると、自分自身にとって自分の記憶というのはアイデンティティであり、他とは違う、自分自身であることそのもののように思いますよね。

重要であると言っても過言ではない。

しかし、遺伝子にはそのような能力が備わっていません。

なぜだろう。

確実に言えることは、
「記憶が遺伝子のコピー過程で重要ではない、あるいは無いほうがいいからだ。」

私たちを作り上げる設計図にとって、記憶など取るに足らないということです。

ただ面白いことに、記憶を残すつもりがない遺伝子によって出来た私たちは、外部の有機物、無機物を駆使して、記憶を記録する方法を編み出しています。

絵に始まり、文字があり、本があり、写真や映像などがある。

記憶を含めた自己を、自己としてコピーしていくことは出来ないが、
年輪を重ねて年代を測定する年輪年代測定法のように広義の記憶を外部に残していくことが可能となっています。

そのようなことを行う能力が遺伝子にあるのか。
文化的な遺伝子としてのミームが、物理抽象度を上げたときの人という存在の構成要素として存在しているのか(人類史を一人の人生と捉えるような抽象度)。

専門ではないから、妄想しかできませんが、
私たちは、何が起こったとしても、バランスが悪いことなんて無いのかもしれません。

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