「このままじゃ小卒」宣言→校内きっての劣等生→高校に行けないかも!→お情けで高校に入れた帰国子女 前編
私は幼少期から虐待を受け、二次加害も割とたくさん受けました。それだけでも既に普通とは言い難い環境だったのですが、中学と高校ではそれに加えて、学校で特殊な存在の生徒として過ごしました。本当はこの学校にいてほしくない異端の生徒、という感じです。
中学は海外(非英語圏)のインターナショナルスクールで、校内きっての劣等生として過ごしました。
詳しい話は以下のマガジンで書きました。
この記事で書く話も、中学時代のことについては、マガジンで書いた内容のダイジェスト版のような感じになります。
私は父の仕事の都合で、中学生になって間もなく海外に行ったのですが、中学に入るまで全く英語をやっていませんでした。中学に入ってからも学校の授業でしか英語を学びませんでしたし、その授業も受けたのは短い間だけだったので、渡航時点での英語力はほとんどゼロに近い状態でした。
インターにはそんなに英語ができない生徒は他にいませんでした。英語の基礎がない子供があの国に住む場合は日本人学校に行くのが普通でしたが、私の住んでいた地域は学校のある街から遠く、日本人学校へは交通手段がなくて通えず(バスや電車も通っていませんでした)、スクールバスが出ている(そして父の会社が学費の補助をしてくれる)インターしか選択肢がありませんでした。
けど、学校側からしたらそんな事知ったこっちゃありません。基礎的な英語もわからない状態で入って来た生徒など、ただの迷惑な存在です。転入して間もなく両親が学校に呼び出され、複数の先生から苦情を言われました。
呼び出しから帰って来た親はかんかんになって、「とにかくできないってすごく文句言われたよ!このままじゃあんたは退学になって、そうするとここから他に通える中学がないから、あんたは小卒になるよ!どうするんだ!」と私を怒鳴りました。
小卒になりたくなかった私は、睡眠時間を削って英語を勉強しました。遠距離通学だったので、睡眠時間を削らないと英語力をつける為の時間が取れませんでした。初心者向けの教材がなかったので、全て英語で書かれた学校の教科書に出ている英単語をひたすら辞書で引いて、意味を覚えまくりました。発音記号は読めなかったので、発音はスルーしました。
その甲斐あってか、はたまた退学の話はもともと単なる親の脅しだったのかは定かではありませんが(私立のインターだから退学も普通にあり得る気はします)、私は退学にならずに済みました。
でも、日本にいる時から虐待などで心身が弱っていた所へ更に追い詰められて無理をしたせいか、私は重い睡眠障害になり、夜一睡もできなくなってしまいました。学校に行っても体が辛く、座っているだけでやっとで、授業を聞くどころではありませんでした。授業は全部英語だから猶更です。
しかも、英語の基礎がないまま英単語の意味をひたすら詰め込んだだけだったので、通じる発音がどうしてもできなかったり等(年齢的に耳だけで発音を習得するのは難しかった上、学校では色々な訛りの英語が飛び交っていたので混乱した)、すぐ壁にぶち当たりました。
授業に集中できないし英語が喋れないのを、先生達からはただの怠け者と思われて毎日のように怒られたり、注意されたり、呆れられたりしました。9年生(インターの高1、日本の中3にあたる)に進級した時は「あなたは英語力がすごく低いから」と一部の授業を取らせてもらえず、単位が足りなくなりました。あのまま向こうにいたら、単位不足で高校卒業が遅れていたかも知れません。
そこまでの劣等生は、私が知る限り他にいませんでした。せめて勉強以外の特技があればまだ良かったのかも知れません。が、あいにく私は、
・運動は元々苦手。
・薬害で口の筋肉が正常に機能していなかったので、学校の吹奏楽の授業でフルートを希望したけどどうしても音が出せなくて、フルート希望者で私だけがフルートを諦めて別の楽器になり、その別の楽器もうまく吹けなかった。
・ピアノを習いたかったけど家に楽器がなく、近所のほとんどの子が習っている中、私だけが習わせてもらえなかった。
…と、何をやらせてもダメな存在でした。
唯一数学だけは学校では得意でした。インターの数学は日本より進度が遅れていたからです。でも、数学は英語力にあまり関係ないし、実技授業なら秀でた生徒はスター的存在になれますが数学ではそういうことがなかったので、数学が出来ることはあまり評価につながりませんでした。日本人なら数学は出来て当たり前と思われていた面もありますし。
言葉ができないから、会話ができる相手は日本人だけに限られました。他の日本人の子たちは、英語力が低く発音ができないし虐待育ちである私をバカにしてきました。対等な存在として扱われたことはありませんでした。
次回は高校時代の話に続きます。