贅沢とは

当たり前ではないことを当たり前だと思っている状態が贅沢ではないかと思う。

いくらお金持ちでも自分がこれまでやってきた努力に対して感謝をしていたり、自分の持っている多大なるリソースを社会に還元しようと行動しているのならそれは贅沢な人とは呼ばないような気がする。

むしろお金がないのにタバコを吸おうとしたり、分不相応なブランド品を身につけているのならいくら収入が低かろうが贅沢な人だと感じる。

そして傾向としてこういう人たちは「仕事でストレスがたまっているのだからタバコくらい安いものだ」とか「100万円の腕時計に比べたら10万円の財布は安いものだ」などと考えていたりする。

つまり当たり前だと思っている。自分の生活に対して「私はこれくらいのリターンが得られて当然である」という思想が見え隠れしている。

「もっとも与える人がもっとも与えられる人である」という原点に立ち返ってみれば、お金持ちをお金持ちたらしめる理由もなんとなく見えてくるような気もするし、逆もまたしかりだろうか。

なにが言いたいのか。謙虚に生きればいい思いができるし、傲慢に生きれば悪い結果にしかならないのではないかと。まあ、そんなことはいまさらか。

「俺なんてまだまださ」と考えている人は仕事でも成長していけるだろうし、家族や友人からも尊重されると思う。しかし「俺はすごい人間なんだ」と他人を見下していたら。

何事も当たり前ではない。蛇口から水が出ることを当たり前ではないと思えないのは一旦仕方がないとしてもどうにか思おうと意識してみる。

感謝しようとする。オリンピックの選手が「ここまでやってこられたのも周りの人たちやファンの皆様のおかげです」と言っているように「いまの生活があるのも関係者の皆様のおかげです」と言ってみる。

そうすると逆にがんばってみようと思えるかもしれない。がんばって成功したから環境に感謝できるというよりは環境に感謝したから成功したのかもしれない。

あるいは、いまが楽しいからこそ自然と感謝ができるし自然とかんばれているのかもしれない。このあたりに関しては千差万別なような気もするが。

もっとも幸福な人はつらい地獄の底から抜け出してきた人たちだと思う。地獄を見てきた人たちはどんな些細な日常にも感謝できる。

私は一生孤独に生きることになるかもしれないと思っていた。だからこそ隣に寄り添ってくれる人がいるだけで私は毎日に感謝することができる。

ただ、私がこうして幸せに生きていけるのは関係者の皆様のおかげですなんて恥ずかしくて口が裂けても言えないけども。

1Q84、1巻が読み終わりそうです。