赤狩り/マッカーシズム・イン・ハリウッド 〜アメリカ暗黒史の映画ファン的考察〜
「赤狩り」とは何か?
「赤狩り」”Red Scare”とは、一言で言えば第二次大戦後にアメリカで起こった反共産主義の(一種の)「魔女狩り」である。
アメリカとソ連との冷戦下、密かに原爆の資料がソ連に渡る。それによりソ連も核開発を進め、アメリカが優位に立てなくなってしまった。面子を潰された、時のFBIフーバー長官は、徹底的にアカを叩く。スパイは共産主義者だと決めつけ、あらゆる場所で粛清を行ったのだ。
ハリウッドの映画村には、共産主義者も多くいた。なぜなら当時は世界恐慌が深刻だった。ニューディール政策よりも、マルクス・レーニン主義の、貧富の差のない社会を理想とする理論に賛同するのも、ある意味自然だったかもしれない。
1947年 非米活動委員会(HUAC = Human Un-American Activities Committee)により、召喚されたハリウッドの監督・脚本家たち10名は、憲法修正第一条の基本的人権も許されず、議会侮辱罪として牢屋にぶち込まれる。彼らが「ハリウッド・テン」と呼ばれる人たちだ。
その後脅しに屈した、アメリカ映画製作者協会はじめ、メジャーな映画会社、俳優組合(後に大統領になるロナルド・レーガンが会長だった)など、軒並みHUACへ協力し、ある者は仲間を売り(密告者・うらぎり者と呼ばれた)、ある者は黙秘を貫き、ブラックリストに載せられ、その後仕事を干されてしまうという状況が、60年代まで続いてしまったのである。
その犠牲となったのは、チャールズ・チャップリン、脚本家ドルトン・トランボや、監督エリア・カザン(後に裏切り者となる)をはじめ、俳優、照明、エキストラにまで及んだ。皆密告されることを恐れ、ハリウッド村の人間は疑心暗鬼になってしまい、分断されたのだった。
マッカーシズムとは?
「マッカーシズム」 “MaCarthyism”は、共和党右派の上院議員ジョセフ・マッカーシーの名前からとった造語で、1950年から54年にかけて全米に吹き荒れた社会運動・政治運動である。
1950年にマッカーシー議員が「国務省内の共産党員のリストを持っている」と発言し、マスコミの注目を集めたのが発端。
その後、リチャード・ニクソン(後の大統領)と共に、映画界のみならず全ての産業・役人・報道関係者の共産主義者リストを作成し、HUACに協力しなければ、刑務所行きか、ブラックリストに載せられ、失職してしまうという「恐怖政治」がまかり通ってしまう。
歴史的には、1945年に第二次大戦が終わり、それまで共にドイツと戦ったソ連とアメリカは対立するようになり、1949年の中華人民共和国建国、ソ連の核実験成功と共産主義の増幅ぶりを警戒していた。1950年には、朝鮮戦争も始まり、アメリカ国内では共産国ソ連が原爆を使って攻撃してくるという恐怖が国を覆っていた。
しかし、1954年、「共産党は軍の内部まで入り込んでいる」とのマッカーシーの攻撃に、時のアイゼンハワー大統領は激怒(軍は自分の出身母体だった)。副大統領のニクソンとFBIのフーバー長官に事実上「切られ」、ここでマッカーシズムは終わりを告げる。
自身はその後酒に溺れ3年後に死去、だが、マッカーシズムにより、何千何万という国民が、不利益を被り人生を滅茶苦茶にされた。これが民主主義国家なのかと考えさせられる。アメリカの暗黒の歴史の1ページである。
トランボ ハリウッドに最も嫌われた男
「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」”Trumbo”(15年)は、ハリウッド・テンの一人だったドルトン・トランボの人生を描いた映画。「赤狩り」を知るには、これを見るのが良いと思う。2016年度キネマ旬報ベストテン第4位。
映画は、それまで一流の扱いを受けていたドルトン・トランボが、ハリウッド・テンとなり刑務所へ入れられ、その後偽名で、二流映画の脚本のリライトで糊口をしのぐが、やがてカーク・ダグラスや、オットー・プレミンジャー監督の後押しもあり、名誉を回復するまでを描く。彼は最後まで自分を曲げなかった。不屈の男だった。
「赤狩り」にあった後の、これはトランボ自身と家族の闘い。特に小さな子供たちは、かわいそうな目にあった。映画のエンド・クレジットで、本物のトランボが「もしアカデミー賞をもらえるなら、辛い思いをした子供にあげたい」と話すのが、その過酷さを物語っている。
劇中、トランプと敵対する保守派の代表としてジョン・ウェインと、当時人気の映画コラムニスト、ヘッダ・ホッパーが登場する。
ぼくは若い頃、ヘッダ・ホッパーの家で、住込みで働いた思い出を書いた、相馬胤成著「ぼくだけのハリウッド」という本を読んでいたので、彼女のことは知っていたが、こんなにゴリゴリの右翼だとは知らなかった。
ジョン・ウェインは、後年、英国BBCの番組に出て「赤狩りで多くの人間が職を追われてどう思うか?」と聞かれ、「誰がそんなに困ったのか?」としらばっくれていた。
余談だが、ジョン・ウェインが癌で亡くなったのは、彼が出演した西部劇のロケ地で原爆実験が行われていたため、残っていた放射能が理由ではないかという、広瀬隆著「ジョン・ウェインはなぜ死んだか?」も興味深い本であった。
ウイリアム・ワイラーとエリア・カザン
「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」でも描かれていたように、ウィリアム・ワイラー監督の名作「ローマの休日」”Roman Holiday”(53年)の本当の脚本家は、ドルトン・トランボだった。だが、表に出れないので、友人のイアン・マクラレン・ハンターの名前を借りた。
ワイラーは、トランボらハリウッド・テンを助けるべく、ハンフリー・ボガードなどと「第一修正条項委員会」を結成し抗議活動を行ったが、実らなかったことに落胆していた。
「ローマの休日」をオール・ロケし、セット撮影も、編集もイタリアのチネチッタ・スタジオで行ったのは、赤狩りの魔の手から逃れるためだった。
それは自分の右腕として長年働いてくれたレスター・ゴーニッグが、密告によりブラックリストに入り、ハリウッドを追放されたことで、彼を守る目的もあった。
このいつまでも眺めていたいほど愛おしい、オードリー・ヘプバーンの名作の裏に、硬派なワイラーがいたのだ。
アン王女もグレゴリー・ペックの新聞記者も、お互い嘘をついている。だが、二人ともお互いを裏切らなかった。真実を誰にも明かさなかった。
この映画が内包している本当の意味は、作り手たちがこの時、内に秘めていた思いだったのである。
映画「紳士協定」(47年)でアカデミー賞、舞台「欲望という名の電車」の演出で名声を得たエリア・カザンは、HUACの求めに応じて、友好的証人、つまり「密告者」となった。なぜそうしたのかは、誰にもわからない。本人も自伝にも理由を書かなかったようなので、永遠の謎である。だが、その事実が彼の残りの人生に影を落とすことになる。
密告後、マーロン・ブランド主演の「波止場」“On The Waterfront”(54年)や、ジェームス・ディーン主演「エデンの東」”East of Eden”(55年)という名作を発表するが、当時の評論家からは、赤狩りの自己弁護っぽい映画と評価されている。
「波止場」の場合は、自伝の中で、主役のトニーが港湾労働者の仲間から「村八分」にあうところは、自分の経験だと記しているようだが。
人の恨みは何年経とうが、消えないもの。 1998年にエリア・カザンが、アカデミー賞「名誉賞」を受賞した時、会場は異様な雰囲気になったことを覚えている。
拍手とブーイングが入り混じり、着席したままの人も大勢いた。約50年経った後でも、ハリウッドの分断は終わっていなかった。これも赤狩りの後遺症である。
チャップリンの追放
アメリカ映画界のスーパースターの一人は、まぎれもなくチャールズ・チャップリンである。サイレント映画時代からトーキーになっても、素晴らしい映画を撮り続けたそのズバ抜けた才能とスター性は誰もが認めるところである。
FBIも、共産党員だったという事実がない、チャップリンほどのヒーローを「赤狩り」で逮捕することは、さすがに躊躇していた。
チャップリンは英国ロンドンの生まれだ。彼の幼少期の貧乏で悲惨な経験、愛する母も神経を病んでしまったこと、それら全てが彼の映画の中で生かされていた。
彼は自分の国籍をアメリカに変えることをしなかった。42年も住んだのにだ。そのためアメリカから渡航する際は、その都度「入国許可証」が必要だった。
1952年、チャップリンは妻ウーナと共に、クィーンエリザベス号で母国英国へ向かった。新作「ライムライト」の世界初公開のプレミアに出席するために。
出港二日目アメリカ司法長官は、チャップリンに帰国禁止令を出す。事実上の「国外追放」である。
その後、チャップリンは1972年にアカデミー賞が、特別栄誉賞を授与するまで、20年間アメリカの土を踏まなかった。
なぜチャップリンは赤狩りにあったのか?
サイレント映画時代のスラップスティック・コメディで、大人気となったチャップリンは、アメリカへ渡り、ダグラス・フェアバンクスたちと新たな映画会社ユナイテッド・アーティストを、ハリウッドに設立する。
映画が自由に撮れるという境遇を手にしたチャップリンは、次々に名作を作り出す。「街の灯」(31年)は、ワンシーン撮るのに一年以上もかかったという(盲目の花売り娘とチャーリーの出会いの場面。300テイク以上撮影した)。
やがてサイレントからトーキーの時代となる。最初はトーキーに抗ったが、歌の部分のみ音声を付けた「モダン・タイムス」(36年)では、人間が家畜のようにならされた資本主義を揶揄し、その後時代は第二次世界大戦へと進んでいく。
自分と誕生日が4日違いというアドルフ・ヒトラー(チャップリン4月16日、ヒトラー 20日)の、ナチの躍進に怒りを覚えたチャップリンは、初めてオール・トーキーで「独裁者」(40年)を完成する。
だが、ヒトラーの最盛期に、この映画を公開したこと。ラストの演説がメッセージ性が強すぎたことなどで、やがて彼は共産主義者のレッテルを貼られることとなる。この時代のアメリカの「空気」は、社会批判をすることは、共産主義だと捉えられていたのであろう。
そして、彼の評判は、次作「殺人狂時代」(47年)で決定的となる。
この作品は、オーソン・ウェルズ原案で、それを買い取ったチャップリンが、製作した辛辣なコメディ・ドラマ。
大恐慌で、職を失った男ヴェルドゥ(この名前 “Monsieur Verdoux” が原題)が、結婚詐欺を働き女性を殺してしまう。裁判にかけられた時に「一人を殺せば殺人者だが、大勢を殺せば英雄になる」と戦争を批判した有名なセリフを吐く。
これが時の政府の怒りを買ったのは容易に想像ができる。冷戦の緊張関係が高まる中、「反ソ反共」を掲げ次の戦争を起こし、世界一の大国になるのがアメリカの野望だったのだから(同時期に反共目的のトルーマン・ドクトリンも発表されていた)。
「殺人狂時代」は反共主義者の猛反発を受け、興行的に大失敗してしまう。チャップリンは自分の年齢も考え、次作のメロドラマとも取れる「ライムライト」(52年)を故郷ロンドンを舞台に撮る。この作品は彼の癒しだったのかも知れない。
数々の名セリフも、彼自身が自分を鼓舞するために発していたのかも知れない。
「人生は恐れなければ、とても素晴らしいものだ。人生に必要なものは、勇気と想像力、そして少しのお金だ」
「希望がなければ、瞬間を生きれば良い。素晴らしい瞬間だってあるんだから」
「私は雑草だ。刈られてもまた生える」
この名作を抱えて、チャップリンはアメリカを旅立った。そして再び「入国」は出来なかった。アメリカは、そして「赤狩り」は、正しいことだったのか?その答えは明白に出ている。歴史が証明している。
冷戦時代の核爆弾の恐怖
YouTubeで、ボストン大学、ジョン・ホール講師による「1950年代のアメリカ映画と赤狩り」“American Films of the 1950’s and The Red Scare” という講演を見つけた。見てみるといくつか興味深い話があった。
Museum of Fine Arts, Boston “American Films of the 1950’s and The Red Scare”
つまり、赤狩り・マッカーシズムとは、共産主義というより、ソ連の核攻撃の恐怖を植え付けるものだったのだ。それはドキュメンタリー「アトミック・カフェ」(82年)で見て取れるという。
このナレーションのない、1940〜50年代の実際の映像と音楽のみで、核爆弾の恐怖を見せる良質のドキュメンタリーを見ると、アメリカ政府は「ソ連の核攻撃があるぞ」というプロパガンダを流し続けていたことがわかる。
国民は、共産主義者はみんなソ連のスパイだと思い込まされていた。実際にソ連のスパイとして、ローゼンバーグ夫妻が、1953年に電気椅子で死刑になった。国民は恐怖に苛まれ、自宅に核シェルターを作り、いつソ連の核ミサイル攻撃があってもよいように真面目に準備していたことがわかる。
(広島・長崎の原爆投下、ビキニ諸島沖での第五福竜丸の被爆についても触れている。)
ホール氏は、50年代の映画で「赤狩り」を連想させる映画として、西部劇「大砂塵」”Johnny Guitar”(54年)をあげている。日本では主題歌「ジャニー・ギター」が有名ですね。
主役のジェーン・クロフォードは白い衣装で、彼女の酒場を焼討ちに来るマーセデス・マッケンブリッジや市民の群れは黒い衣装。監督のニコラス・レイは、こうやって理不尽な赤狩りを表現したものと話す。
それから当時の核実験の恐怖を訴える映画として、「海外では『ロダン』“Rodan”が作られ...」と話してて、一瞬わからなかったが、東宝映画の傑作「ラドン」(56年)の事だと思い出した(苦笑)(英語題は彫刻家みたいな名前になってるのが謎だけども・笑)
アメリカのSF映画としては、「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」”Invasion of the Body Snatchers”(56年)(未公開)をあげている。
宇宙から来た未知の生命体によって、町は侵略されてしまっていた。人々は肉体をその生命体に乗っ取られてしまっていたのだ。主人公は恋人ベッキーと共に町を出てこの事実を世界に伝えようとする。だが、ラストにベッキーもすでに体を乗っ取られていたことがわかる。
ドン・シーゲル監督の、今ではSF映画の古典となっているこの作品も、赤狩り時代の恐怖を描いたものだったのだ。
赤狩りの時代とは何だったのか?
結局、赤狩りとはアメリカ史の中での、「集団ヒステリー」のようなものではなかったかと思う。
流行病(はやりやまい)のように、政府は「共産主義(核戦争)は怖い」と国民を洗脳し、一つの風潮や時代の空気を作り上げた。
国民も犠牲者だったが、このことで人生を狂わされた人々のことを思うと気の毒でならない。この歴史の教訓は、いつの時代でも我々は思い出す必要があるだろう。
一人の映画ファンとしては、赤狩りがあったから生まれたといっていい「ローマの休日」「波止場」「エデンの東」といった名作を見ることができてよかったと思うべきかもしれないが、いやいや、その後ろにもっと多くの素晴らしい才能が握り潰されたこと考えると、ハリウッドと世界の映画ファンにとっても甚大な損失だったといえるだろう。チャップリンもひょっとしたらもう2、3本名作を撮っていたかもしれないし...
現在、ぼくが住んでいる香港では「国家安全法」が施行され、約一ヶ月が経った(2020年7月1日施行)。全人代を通過して、あっという間の施行だった。
香港に暮らす人間は、言論に気をつけなければならなくなった。赤狩りは、「反共産主義」だったが、こちらは「反民主主義」だ。
ぼくが赤狩りに興味を持ったのは、そんな理由があるから。
今後、中国とアメリカの冷戦が続いていくとなれば、どんな世界になるのだろうか?
今我々は歴史の分岐点にいると感じる。香港というカードを、双方がどう使うのか?真っ只中にいる自分は、びくびくと恐れながら、それを見守っているのである。
その他の「赤狩り」を描いた映画
最後に「赤狩り」を描いた映画として、ぼくが思い出すものをいくつかあげてみよう。
「ウディ・アレンのザ・フロント」”The Front”(76年)
赤狩りにあって表に出れない脚本家が、馴染みの店のマスターに名前を貸してほしいと頼むことから起きるコメディ。
「フロント/Front」とは、名義貸しをする側のことをこう呼んだから。
ウディ・アレンはマスター役の主演だけで参加。監督はマーティン・リット。
エンド・クレジットで、スタッフの名前の横に、何年にブラックリスト入りと書いてあったのを思い出す。
「真実の瞬間(とき)」”Guilty By Suspicion”(91年)
アーウィン・ウィンクラー脚本・監督のこの映画は、ブラックリストに載った後の売れっ子映画監督の転落ぶりと、強い信念・勇気を描く。主演はロバート・デ・ニーロ。それにマーティン・スコセッシも出演している。
1998年 アカデミー賞「名誉賞」をエリア・カザンが受賞した時のプレゼンターが、この映画のスコセッシとデ・ニーロだったのは、アカデミー側が少しでも印象を良くしたかったのじゃないか?と邪推している。
「グッドナイト&グッドラック」”Good Night, and Good Luck”(05年)
CBSのキャスター、エドワード・R・マローが実際に放送したTV番組の裏側を描く。この放送がマッカーシズムに一撃を喰らわすことになる。
監督のジョージ・クルーニーは、あえてモノクロでこの映画を撮った。おかげでめちゃ渋い出来になっている。
あと思い出すのは、「追憶」”The Way We Were” (73年)もマッカーシズム時代の左翼思想が描かれていた。この見事な恋愛映画も実は骨太なんである。
それから「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」”Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull”(08年)もマッカーシズムと核実験の時代が舞台だった。
その他、赤狩りについて、主に演劇人のことを書いた本では、津野海太郎著「ジェローム・ロビンスが死んだ – なぜ彼は密告者になったのか?」(文庫題)が面白い。「ウエスト・サイド物語」のロビンスが赤狩りで仲間を売らざるを得なかった理由をミステリーのように紐解いていく。以前ぼくはレビューを書いたのでそちらも参照ください → ココ
今回特に参考にさせてもらった文献は、吉村英夫著「ハリウッド「赤狩り」との闘い:『ローマの休日』とチャップリン」、及び 山下おさむ著 コミック「赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD」 1 〜 7巻である(←早く続きが読みたーい)。
どちらも大変おもしろく一読をお薦めします。
今回は長くなりました。読んでくれてありがとう。
てなことで。