映画『そして父になる』は、「家族になる」じゃないっていう点を見落としてはいけないんだな

ぼくは、生まれてから三日後くらいまで、取り違えられていたらしいし、4歳の頃に母が再婚したので、こういうテーマの映画はいろんな思いがぐちゃぐちゃしちゃう…のはしかたがない。

家族とは、家族であるものとして存在しているのか、家族になるものなのか。そんなテーマがあるように思えるけど、他の是枝作品と同様に、それについて明確な解は用意されていないようだ。どちらともとれるような気がする。

ーーー以下、2023-06-10補足ーーー
ここまで昨夜(2023-06-09)書いたけど、いやいやいや、違った。「家族とは」ではなくて、映画のタイトル通り「父とは」だ。
是枝監督の映画は、たぶん(調べたわけではないので推測だけど)是枝監督が父親に対する何らかの思いがあって、それが作品の根底にあるのではないか、と思う。
ーーー補足、終わりーーー

実験用に作られた林は、もともとは林ではなかったにも関わらず、多様な生命が宿る林になったことが描かれている。その林が林「になる」まで15年の月日が費やされたことは、「15年もかかる」ことと同時に、時間をかければ「になる」ことは可能であることも示している。

翻って、家族とは何か?父とは何か?母とは何か?を考えさせられる場面がいくつかあった。登場人物それぞれが「とは何か?」と考えたり「自分はそれで在り得ているのか?」を自問している。

グレングルドのゴルトベルク変奏曲が最初と最後に挿入されているのがとても印象的だった。
バッハの作品をたくさん、何度も録音しているグレングルドの、特に代表的なゴルトベルク変奏曲は、録音ごとに演奏の様子が随分違うから、グレングルドを聴き込んだことがなければ別人の演奏なのかな?と思ってしまう。
うなりながら、その日その時だけの演奏をするグレングルドを、ぼくはジャズピアニストにカテゴライズして聞いている。
ゴルトベルク変奏曲はその名の通り変奏曲なので、同じテーマに沿ってメロディが千変万化する。どこを切り取るか?によって全く別物に聞こえるけど、根底には同じテーマが流れている。
バッハのゴルトベルク変奏曲、特にグレングルドの演奏は、家族とは何か?父とは?母とは?を考えるとき、言語化しにくい答えをバッハが作った曲自体とグレングルドの演奏で表現しているような気がする。
どこを切り取っても、いつ奏でても、どれもがゴルトベルク変奏曲なのだから。

ここ一週間は完全に是枝づいているので、今夜なんて『海街diary』(2回目)と『そして父になる』(たぶん4回目くらい)の二本立てで観ちゃった。
『そして父になる』は、感想をまとめにくい映画だ。
だからなかなか感想を書き起こせなかった。
そして、今夜は思い切って、まとまらないまま書いた。
さらに、論理的に整理することを諦めて、絵画的、音楽的にまとめてみることに挑戦したい。

『そして父になる』にグレングルドのゴルトベルク変奏曲を用いたのが、この映画の主題のような気がする。グレングルド、好きだし、自分。

ーーーさらに補足、2023-06-10ーーー
おそらくこの映画の山場は、福山雅治が演じる父親良多がカメラに残っていた写真データを確認したとき、だと思う。
そのカメラは、一度良多が息子にあげようとしたけど、息子が「いらない」と断った、というエピソード付きのカメラ。
カメラには、息子が父親良多の寝ている姿を撮影した写真データが多数残っていた。
息子が撮影した写真を見た良多は、息子を迎えに行くことになる。

Ryota is Keita's father.
Ryota has become Keita's father.

と、英語で書いてみると見えやすくなるような気がするけど、父親になろうとする行為や意志は、その父親自身に主体性があるけど、父親かどうか?については文法的な主語は父親かもしれないけど、そう判断しているのは父親自身ではなくて、父親を見ている誰かだ。前者がTPS(Third Person Shooter)であるのに対して、後者はFPS(First Person Shooter)とも言えるかな。
良多は息子にとっての父親「であろう」と思っていたつもりかもしれないけど、本当は父親「になろう」と思っていたんじゃないか。それはつまり自分が(自分が思い描くような)父親ではない、なりきれいていないということが前提にある。
でもこれは裏返せば、息子は良多にとっての(思い描くような)息子ではない、という思いが根底にあるのではないか。
あ、そうか。
自分(良多)が父親であるかどうか?ではなくて、自分(良多)にとって息子が息子なのかどうか?良多が思い描く息子になっているかどうか?なれるのかどうか?という視点で良多は息子を見ていたし、悩んでいた。っていうことか。
そういう視点が、病院から「取り違い」について知らされたあとに出てくる「やっぱりな」に繋がっていたんじゃないか。

でも、カメラに残っていた写真が、良多が息子にとって父親「である」ことを良多に伝えた。伝わったんじゃないか。
「息子は自分のことを写真に収めたいと思うほど、父親として慕ってくれていたのか」じゃなくて、息子が父親「である」自分のことをいつも見ているにも関わらず、カメラに収める対象となるような距離が息子と自分の間にはあったことも認識したんじゃないか。(ぼく自身は妻の写真をほとんど撮影しなくなった。交際を始めてから30年近い時間が経っていることも理由の一つだけど、妻は添い遂げる予定の他者なので、これからもリアルタイムで妻を見続けられる。けど、子どもたちはそのうち手元から巣立っていく。だからこそ写真に収めたり、今の姿や物語を未来でも共有したいから、写真を撮る。
自分との距離がある存在、もしかしたらこれから先距離が広がっていくであろう存在だからこそ、写真というメディアに記録しておきたいと思う。だから、きっと、写真に収めるっていう行為は、近づきたいし寄り添いたいと思ってもそれが叶わなかったり将来的にそれが難しくなることがわかっているからこそ取りたくなる行為なんじゃないかな。)

いずれにしても、写真に収められた自分の姿(息子が撮影した自分の姿)を見て、息子に対して持っていた父権的な視点だけだった良多が、自分と家族を俯瞰してみることができる視点を獲得したことが、物語の最後のシーンに繋がっていくんだなぁ。

ぼく自身の話をまた一つ思い出した。
幼い頃、ぼくの両親はときどき夫婦喧嘩をして、酷いときには「お母さんかお父さんのどっちについてくる?」と答えを迫られてこともあった。(「お父さんとお母さんが離婚したとしたら、どっちについてくる?」っていう意味)
ぼくが答えないでいると、母は泣き出した。
あとから聞いたら、「(私の連れ子であって、(生物学的な意味では)現在の父親の本当の子どもではないあなたは)絶対に(生物学的な意味で本当の親である)私についてくる、って言うと思っていた。」と嘆いていた。
親にとっては「①母親についてくる ②父親についてくる」の二択かもしれないけど、ぼくにとっては「①家族一緒 ②家族離散」の二択にしか見えない、考えることができない話だったから、答えられなかった。
これは、親視点と子視点の違いを如実に表していたな、と思い出した。

結局何もまとまらない感想文だ。


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