【連載小説】母娘愛 (30)
張られた立ち入り禁止の帯が、裕子の腰辺りに鬱陶しく纏わりついてくるばかりだ。背伸びしようが、腰をかがめてみようが、一階フロワーを行きかう警察官の姿しか見えない。
『ママ!大丈夫・・・』乾いた唇に、ただ言葉が滑り、胸の高まりは激しくなるばかりだ。
階段の奥の方で、新しい動きがあったようだ。
救急隊員がストレッチャーを進めて来る姿が見えた。裕子の眼差しは固まってしまった。ストレッチャーの側面から垂れ下がる腕が、年配の女性のようにみえたからだ。
「ママ!ママ!」裕子は辺りに憚ることもない大声で呼ぶ。立ち入り禁止の帯は、意外にも簡単に腰から解け、裕子は前のめりでストレッチャーの側面を掴む格好になった。
救急隊員の制止が遅れて、裕子はまともに恵子に抱きついた。「下がってください!危険ですから・・・」救急隊員は裕子の両肩を鷲掴みにして、ストレッチャーから離すのに必死になっている。
「娘です!私!」「・・・」
「どうなんですか?容態は?母なんです!」「・・・」
救急隊員は一言も応えてくれなかった。
あれから、一年が過ぎようとしている。今年も広島の夏は厳しい暑さだ。
そして、8月1日がやってくる。
あの日、母はあっけなく逝ってしまった。芝居だったというのに、非日常的な場面に遭遇し、そのショックで、尊い命を落としてしまった。
あれから、裕子は平常心を取り戻すのに、ほぼ一年かかってしまった。
実家の整理にとりかかろうと、一年ぶりに訪れた広島の夏は心身共に耐えがたい。
玄関を開けたとき、母の姿のない現実が裕子の悲しみを一層誘った。『ママ!』裕子の聞き取れない小さな声が、家主のいない家に吸い込まれ、裕子の頬を新たな涙が濡らした。
座敷にしゃがみこんだ裕子は、箪笥の抽斗に手をかける。母が折に触れ話していたからだ。「ゆうちゃん、私に、もしものことがあったら・・・」が口癖だった。高価な着物ばかりだから、いの一番に処分することを懇願していたのだ。
抽斗をゆっくりと引き出せば、小動物の鳴き声のような悲しい音がした。
防虫剤の匂いが裕子の鼻を突く。タトウ紙に丁寧に包まれた着物を取り出したときだ。
その下からお札の束が現れた。次から次に出てくる一万円札の束。次の抽斗にも、その次の抽斗にも。すべてに、きっちりと帯封がかけられてあった。
裕子の驚きは、尋常ではなかった。鳥肌の二の腕をさすりながら、なすすべがなかった。
一息ついて落ち着いた裕子が見つけた、黄ばんだ一枚の便箋には、恵子の在りし日の想いが綴られていた。
ゆうちゃんごめんネ
ママは、心ぞうベンマくじゃったの。いつ、おらんようなるかわからんの。その時のために、ごセンゾさまからウけ続いだ大切なモノお、あんたにお願しとくケエ。ゆうちゃんがイラなけりア、市にでも件にでも寄付して来ださい
裕子は、誤字脱字にカナ交じりの、メモ書きのような、まるで愛のない遺書を、何度も読み返しながら、『学がないから・・・』という母の声を聴いていた。
(了)
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