自由律俳句集~壱~
長年使っていた茶碗が欠けた。
気づいたときには、口縁の部分が小動物にかじられたみたいになっていた。基本的に他の生物に意図せずかじられたものは使わないし食べもしない。だから買い替えなければいけない。
しかし、私は母に買いに行かせた。というより、勝手に買ってきた。「買ってきたから」と、差し出された茶碗は渋めの柄で若者らしくない。
そしてなによりでかい。
かじられた茶碗より一回り二回りでかい。
先住茶碗たちよりでかい。
「どうしてこんなにでかいのか」と母に問うと
「たくさん食べてほしいから」
と、恥ずかしいことをはっきりと言ってみせた。
照れくさいので「そんな食べねえよ…」と返した。
実際、太りたくないから白飯を控えようとはするが、うまい飯を母が作るせいで、ついたくさん食べてしまうのだ。思惑通りになっていると思いつつ、私はデカい茶碗いっぱいに白飯を盛り付けている。
現代社会には数え切れないほどのストレス要因がある。その三大要因のうち二つが仕事に関わることだ。多くの人は仕事が嫌なのだ。私もその一人である。
そのストレスを解放するために休日前日の仕事終わり晩酌をする。気分で呑む酒は変わる。その日はテキーラを選んだ。
ショットで呑んでもいいが、カクテルベースにすると長く楽しめる。パロマやエル・ディアブロ、テキーラ・サンライズといった自宅でも簡単に作れるカクテルはたくさんある。だから調子に乗ってしまった。
せっかくの休日だというのに二日酔いだ。空は青く、仕事もないのに、気持ち悪いし鉛のように身体が重い。後悔してももう遅い。後の祭り。寝ることしかできない。
酒なんて二度と呑まない。
小学校で歌のテストがあった。クラスメートと音楽の先生の前で課題曲を歌わされる。私はこのテストに批判的であった。
といっても、先生を説得できるような意見は持っていなかった。他人が自分の下手な歌を聴いて笑わうことが怖くて恥ずかしかった。
テスト以外で一度も歌を披露してこなかった僕は、なぜか風呂場でリサイタルを開催する。毎回決まった曲目を歌うが、毎回同じ箇所で歌詞を間違える。
オーディエンスがいないから、怖がることも恥ずかしがることもない。それに風呂場だと自分の声が程よく響いて少し上手に聴こえる。それが気持ちよさに拍車をかけている。
しかし、時折人の気配を感じて中断してしまうことがある。この家には家族で住んでいるから、それは仕方のないことではあるが。
ゴキゲンな歌声でうるさかった浴室が静かになると、物音に敏感になる。聞き耳を立て、脱衣所に誰かいないか半透明の扉越しに確認する。誰もいないことがわかると再び歌い始める。だがすぐに飽きて、頭の中の友達と会話のシュミレーションをする。
風呂場を出てリビングに行っても家族は何も言わない。ただ
「楽しそうに歌っていたな」
と、そんな空気に満ちていた。
普段はまだ寝ている時間に喫茶店に居る。正面には友達。ニヤついている。
自由律俳句を考えようと集まった。こんなことで集まる人間は、おそらく市内で我々だけだろう。そういう少しの誇りと恥じに、こそばゆい感覚がする。
朝食にモカとモーニングセットを注文した。斜めに切られ半分にされたバタートーストとゆで卵が、バスケットに綺麗に盛り付けされている。見た目通り旨かったが、ゆで卵の殻はこんなに硬かったかと気になった。
自由律俳句のほうはテーマを決めてお互いに考えた。しかし、私は何も湧いてこなかった。テーマを決めて考えるのは、まるで大喜利のようだった。自由律俳句は俳句だ。俳句とはこうやって生み出すものではないと、うっすら思っていた。
モーニングセットでは腹が満たされなかったため、追加で食べ物を注文しようと思った。美味しそうなハンバーガーやトーストがある中、一応健康に気遣ってコールスローサンドにした。想像通りの味だったが、歯にキャベツが挟まるのは予想外だった。
まだ自由律俳句は思い浮かばない。歯に挟まったキャベツを舌で取ろうとする。その間にも友達は自由律俳句を思いついてはLineに送ってくる。私は腕を組み、歯にキャベツが挟まって舌でいじっていることを悟られないように虚空を見つめる。
ふと、このことを自由律俳句にできるのではと思った。それと同時に、俳句とは頭から無理矢理捻り出すものではなく、その瞬間や情景を切り取って自分の言葉にすることなのだとも思った。
しばらくして、挟まったキャベツは取れた。自由律俳句が出来上がった時より嬉しかった。
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