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母という女(ひと)

—— 2023年9月1日 16時36分
まだ暑さの続く初秋の日だった。
その日私は、例の如く(*過去記事参照) 人生のスランプ真っ只中で、昼間から自宅で求人サイトを舐めるように見ていた。

普段、世間話程度では滅多に連絡を取り合わない母から、突然「来週の水木で帰省できたりする?」とメッセージが届く。

これが私たち家族を激震させる全ての始まりだった。



◆予想外の回答

当時の私は、曲がりなりにも忙しない日々を送っていて、実家に帰省するタイミングはせいぜい年末年始くらい。家族からは心配されつつも、帰省を促されるといったことはなく、基本的には都内で孤独に四苦八苦していた。

母は地元で私以上に仕事をしていて、その日もいつもならまだ就業時間中のはずだったが、いきなり理由も言わずに「帰省できない?」と連絡をよこしてきた。

この時点で大きく ふたつ の可能性が私の脳裏をよぎる。

① 親族の死
② 私の生活の実情がバレて強制送還
(当時私は極貧生活を送っており、各種保険金や税金を納められず口座の差し押さえに遭ったりしていた)

特に①に関しては、実家に住む祖父母のことや、国外に赴任している父のことがどうしても思考をチラついた。
私が帰らないうちに何かあったのではないか?そういえば祖父母って今何歳なんだっけ?父のいる土地は相当治安が悪いと聞いたけど…… と、さまざまな疑念が一瞬のうちに駆け巡った。

②に関しても、私の実態が実家にまで影響するということは考えにくかったが、各種滞納による差し押さえにまで話が発展していてトラブルの渦中に在ったので、これが何らかの形でバレて実家が差し押さえられたら… それか実家に戻って来いとのお達しか…? などと最悪のケースを想定して、先に言い訳を考えたりもした。

しかし、必要以上に私の生活に干渉してこない母からの、それも割と急を要していそうな連絡は、やはり ① の説が濃厚であると踏んだ私は、母が仕事中なのかどうかも顧みず電話をかけた。


結論から述べておくと、答えは①でも②でもなかった。
否、どちらかと言えば「①に近い」のだろうか。


母がになったのだった。



◆母の要望

母との電話から得られた情報は以下である。

・ステージ2〜3の大腸癌で、盲腸丸ごと+大腸の1/3を切除(手術)する必要がある
・子宮にも大きな嚢腫が見つかっている
・体内の他部にも既に転移している可能性がある
・多忙のあまり、会社の健康診断で再診になっていた大腸の検査に行けていなかった
・仕事中に貧血で倒れたことで全てが発覚した
・いきなり死にはしないが、今後の闘病は覚悟しなくてはならない
・同居する祖父母は手術の保証人にはなれない
→ ひとり娘である私が同意しなければ手術できない
そして、
・父および祖父母には絶対に知られたくない


つとめて明るくこの話をしようと、少し興奮気味に面白おかしく喋り続ける母と、その努力も虚しくしっかりとショックを受けている娘の私。
母から新しい情報が出てくる度、私の体温が少しずつ下がっていき、あの時の自分の顔から血の気が引いていく感覚を今でも忘れることはない。

家庭の経済事情により仕事が忙しいことは知っていたものの、自分の健康を冒しながら働き続けていたことも、またそんなことを身内にも言えないまま人知れず倒れていたことも、たったひとりの母を想うと私にはひどくつらく、思わず涙がこぼれた。
すぐに帰る手配をすると伝え、次回に控えた主治医との面談に同行することになった。


しかしながら、こちらの悲しみや今後の心配もそぞろ、此の期に及んでも「断じて父と祖父母には言わないでくれ」と頑なに秘密を作ろうとする母に呆れてしまい、泣いているのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。

母曰く、
既に医師からも「判断能力がない」からと、実子の手術に同意もさせられないような要介護老人2人に病気になったなどと伝えたら、これまで保たれてきた生活の調和が乱れる、と…

そしてそれは父にも同じく、
ただでさえ心配性な彼に事実を告げようものなら、後先考えずに仕事を辞めて、全てを投げうってでも帰国してきてしまうかもしれない。

そんなことになれば、たとえその癌の予後が良かろうと悪かろうと、治るものも治らなくなる、と…


母の言いたいことはごもっともで、私生活においては実家の全てを担ってきた彼女を、病名ひとつで病人扱いするには、もうただの善意や親切心だけでは賄いきれないのだ。

足腰も悪く判断能力のない老人2人に何ができる?
今まで一度も家事などやってこなかった父に何ができる?

彼らが母を病人とみなして世話を焼くほど、母の心労が増えるばかりであろうことは、離れて暮らす私にも想像に容易く、散々悩んだ挙句私は「とんでもない十字架を背負わされたな…」と吐き捨てて母と2人だけの約束を結んだ。



◆母と娘の秘密保持契約

とは言え、どんなに計画的だったとしても、実の家族間で秘密を守り続けるというのは簡単なことではなかった。
まあ、そもそも人間の命が懸かった状況をナイショにしようなどと言っている時点で相当罰当たりなのは重々承知であったものの…

母と予定していた通り、詳しい病状と今後の治療方針、手術日程や闘病に向けてのプランを相談すべく実家に帰った。
この時点で、「都内で働いているはずの孫が、ド平日のクソ中途半端なタイミングで何故か帰って来た」と祖父母から大変な質問攻めに遭ったが、
「仕事の都合で今週いっぱいが遅めの夏休みになった」ということにして、降り掛かる火の粉を鎮火した。


余談だが、これでも私は嘘や虚言がとても嫌いなのだ。それがどんなに優しさ故の嘘だったとて、隠し事のために他人のことを欺くのは良心が痛むものだった。
それも赤の他人ではなく、一緒に暮らす家族を日常の至る場面で偽って暮らすのは骨が折れることだった。


「母と2人でお出掛け」と称して行った大学病院でもらった大量の同意書、がん保険の手続き、各種申請書類を、自宅2階のダイニングテーブルに広げながら指差し確認していく。

ひとまず簡単な申請書類にサインしながら
「通院したり入院し始めたら、この茶番も一筋縄ではいかないんじゃないの?」
と私がため息混じりに尋ねると、

「それはね〜… そう思って、何か聞かれたら『大腸ポリープ』ってことにしようと思うの」
と、微塵の悪気も感じさせない返答が母から返って来た。

ポリープで10日間入院なんて聞いたことないだろ…と喉まで出かかった言葉を飲み込みつつ、しかし、どんなに疑わしい情報も調べる術とツテのない老人に同情しながら「ふーん」と適当な相槌を打った。

そんなことを話しているうち、我々の様子が気になって仕方のない祖父が何度も2階を覗きに来て、その度に私が「おじいちゃんお茶飲む?」「タバコ吸いに行こうよ」などと気を逸らしながら違う部屋へ誘導して難を逃れていたが、

少し目を離した隙に、何も知らない祖母がリビングルームへ向かい、隠しきれなかった「入院の手続き」を怪訝な顔で見ていたので、咄嗟にその「ポリープらしい」とかいう虚偽の情報も私の口から伝える羽目になってしまった。

「えっ!?近所の○○さんがポリープになった時は、入院なんか必要なかったのにねぇ…」
「あんなのちょちょっと切って終わりじゃないのか!?」
「あ、なんか最新の医療技術で、ポリープが転移してないか経過観察するために予備的に入院するらしいよ!(?)(?)」
と、純粋な老人からの大量の質問に口から出まかせで喋る私を差し置いて、母は笑いを堪えながらお茶を淹れに行ったりしていた。

絶対にちょっと面白がっていた節があると思う。


しかし、今思うと、癌治療を乗り越えるには誰かと結託して面白おかしく笑い飛ばしでもしていなければ、気持ちも滅入ってしまうだろうなと身に沁みて感じた。
仮に「ポリープ」だろうとこれだけ騒ぎ立てられてしまうのだ。「ポリープ」だろうと何だろうと、ここにいる人間で一番つらいのは、間違いなく母なのだということを、全員が失念している。

この時は私も、母の嘘に「付き合わされている」という意識が強く、やれやれという気持ちになっていたが、その一連の茶番で母が少しでも気を強く持って、少しでも笑って過ごせるのであれば、祖父母を適当にあしらうことなど屁でもなかった。

そうして手術までの数週間、私と母は小嘘をつきつつ、その度に「今の危なかったね〜!」なんて笑いながら、割と普通の生活を送れるように着々と入院準備を進めていた。



◆父の涙

実家の祖父母は上手く交わすことができていたのも束の間、我々母娘の様子を海の外から窺う本当に何も知らない人間がいた。

父である。

「帰って来られても逆に負担」というかなり残酷な理由で事実を隠蔽され続けていた父が、どういうわけか入院日直前の週末に突然テレビ電話を掛けてきた。

案の定、何故か実家にいる私に対し想像通りの質問をした後、曖昧に言葉を濁しまくる私を怪訝に思い「なんかあったの?」と聞いてきた。


話は脱線するが、
父からの電話というのは、【アメリカ - 日本】間で時差もある中、大抵こちらに何の配慮もない時間帯に掛かってくることが多く、この日も確か深夜を回っていたと思う。
久々に声を交わすとは言え、笑顔のひとつも作れないほど私も疲弊し切っており、これが父を猜疑的にさせる全ての発端であったと自負している。

普段年寄り相手ならスラスラとデタラメが出てくる私も、この時の父からの「なんかあったの?」に対しては適切な回答が思いつかず、「ちょっとね〜…」とはぐらかしたことで父の「なんかあった」予想が確証に変わってしまい、もうそこからはお察しの通りである。

正直、秘密保持契約を締結していた身としては、それ以上の真実を自らの口で語るのは荷が重く、当該者である母に任せたかったのだが、
この日既に母は寝ており、また父も気が動転して私を責め立てる口調になってきていたため、これまでの経緯を話さざるを得なくなってしまった。


癌とは言え母の病状は決して深刻ではないこと、医師からもそんな大袈裟にしなくて良いと言われていたこと、手続きは私で充分だったこと、そして、(便宜上)母が誰にも心配をかけまいとした結果、父には話せなかった。

と、ひと通り説明したところで、画面の向こうの父がタバコに火をつけたまま呆然と泣いているのが見えた。

初めて見る父親の涙。真っ赤な目。
この状況には私も面喰らってしまい、それまで感じてきた嘘をつくことへの罪悪感も相まって、思わず泣いてしまった。

どう転んでも今後母が居なくなるなんて可能性はほぼ0%だったし、手術も目前に控えていて、その上完治の見通しが立っていたので、今更悲しんだところで何もならなかったが、
癌云々以前に、たったひとりの妻が病気になっても夫を頼れない状況(国外にいるため)や、頼ってももらえず知らされもしない状況に傷付いて泣いているようにも思えて、私も少し同情した。

父が悲しむのは当然だけど、ここで我々が感情的になってしまっては、結局苦しい思いをするのは母だということを幾重にも説得し、
そして、実際にお腹を切る人間の意思を尊重しようと何度も何度も慰めの言葉をかけて、どうにか父を諌めることができた。


……と、思っていた。



◆優しさ転じて…

父から私へ連絡のあった翌朝。
私は母の聞いたことのないような声で目が覚めた。

あれだけ口酸っぱく母の心労を慮るよう説得したにもかかわらず、案の定 気を揉んだ父が母に電話をかけてしまっていた。
それどころか「1週間以内に帰国する」と言い出し、入院目前にして最も懸念していたことが、それも娘の告げ口によって勃発したという顛末に、母がとうとう声を荒げてしまっていたのだ。

正直言って、いずれは全ての種明かしが必要だろうとは考えていたものの、まさかここまで母が怒るとは思っていなかったので、責任を感じた私も寝起き早々に両親間の通話に参加し、板挟みになりつつふたりの仲裁をしていた。

父はなにぶん、病気だとか痛みだとか、そういった類に弱いので、手術の方法や治療方針の詳細を聞いただけでも顔面蒼白になっており、
また私が「手術の死亡リスクに関する同意書」にサインさせられたという事実の『死亡』というワードに過剰反応し、ひとしきり母に対して隠蔽工作の件を咎めた挙句、

「だって死んじゃったりしたら嫌じゃん!」
「絶対死なないでよ!」

…という、癌患者に掛けるべきでない台詞ワースト1・2のフルコンボをキメたのであった。

はじめは父の言い分にも多少の理解を示して頷いていた私も、さすがに見過ごせないデリカシーのなさに「ちょっと…」と口を挟もうとしたのも束の間、
「そんなのあたしが一番怖いに決まってるじゃん!!!」
と、まるで爆竹が弾けたかのように、ここ20余年で聞いたこともないような金切り声で母が怒鳴った。

性格や意見の似ている同性の私だからこそ、そして何よりたったひとりの子供だからこそ 面白く誤魔化せていた母の不安が、ある種の自己暗示でしかなかったことがここで露呈した瞬間でもあった。


病人を責めても仕方がないのに、それを心配する者を責めても仕方がないのに。
とても収拾がつかない状況に、慌てて私がスマホを取り上げて、「まずは母の心身が第一だし私がいるから安心しろ」と父を宥め、彼には逐一連絡することを約束し、電話を後にした。

普通の(理想の)家族なら、こんな逆境を乗り越えるためにみんなで一丸となろうと発起するであろうところ、我が家に根強く染み付いている「他人に心配≒迷惑をかけてはいけない」という呪縛が、ここまでの大喧嘩に発展するなんて。

今の彼らに何を言っても無駄と分かりつつも、一度その考え方やこだわりの歪さを、冷静に言語化して理解してもらう必要があるように思えた。

その時私にできることなんて、それくらいしかなかったのだ。



◆最後の煙草

入院前最後の食事は外食が良いと言われていたため、少し明るい時間帯から母を外へ連れ出し、いつもなら車で行く場所に2人で歩いて向かった。

午前中、ひとしきり父に対して怒り散らして悪態をついていたからか、やけに言葉数が少なく心配していたが、
退院したら着たい服や履きたい靴なんかをウィンドウショッピングしながらレストランに向かっているうち、吹っ切れていったように見えた。

あの怒りは母なりの甘えだったのかもしれない。娘の私には見せたくなかった不安の現れだったのではないかと、今も私は思っている。
それを発散できたことが良いのか悪いのかは分からないが、街を歩きながら「パパには今もちょっとムカついてるけど、怒りすぎちゃったかもしれないから、あなたから謝っておいて」と苦笑した母が、切なかった。



30年以上喫煙者として生きてきた母は、手術と今後の闘病および再発防止に向けて、医師から禁煙を余儀なくされていた。それまで毎日持ち歩いていたタバコも、自宅にあった未開封の在庫も、母の見えないところに隠したりした。

もちろん同じく喫煙者である私も、母と同じ空間にいた数日間だけ禁煙を試みていたが、その数日間の尋常じゃないストレスに耐えかねて、この日だけは食後に一瞬離席してタバコに火をつけてしまった。

しばらくすると、喫煙所に母が来て
「あたしも久し振りに紙のタバコが吸いたいな」
と当然のように手を差し出してきた。

喫煙習慣があった患者の術後リスクに関して、医師からキツめに留意を促されていた身としては良心の呵責があったが、
親子とはどうも不思議なもので、私は何故か、このタイミングで母が私のところに来ることを頭のどこかで想定しており、「もう、本当にこれが最後の一本だからね」と言いながら予定調和のように母のタバコに火をつけてあげた。

いつもなら私に口うるさく小言を言ってくる母と立場が逆転したことが照れ臭く、母も「あ〜やっぱり食後はこうでなくちゃ」といたずらに笑ってみせたが、
しかしながら、数年振りに電子でない紙タバコの煙を燻らす母の出立ちは年季を伴っていて、どこか誇らしくも思えた。


いつだって完璧に見える母は、実はとても不器用な人なのかもしれない。

彼女もひとりの人であり、ひとりの女性であり、ひとりの娘であり、ひとりの子どもであった過去を経て今「母」をやっているのだという、当然の事実を改めて痛感した。

それきり、母がタバコを吸いたがる様子など一度も見ていない。



◆一年が経過して

あれから1年とちょっとが過ぎた。
母は、盲腸がスッキリなくなって、大腸が人よりちょっぴり短くなったこと以外は、至って普通の健康体のように毎日を生きている。

本当のところは、今も通院は続いているし、再発防止のための抗がん剤の副作用で憔悴しているのを知らないわけではないが、その苦難も「生きていくことを諦めていない証」であると私と母は考えている。

あの日誰よりも心配していた父は、結局母が退院してから一時帰国し、そしてやはり、特にこれと言って母に安心感を与えたりすることもなく、逆にタスクを増やして帰っていった。

ただ、それもこれも、元はと言えば母が家族を頼らなかった(信頼していなかった)ことが原因なので、その価値観や家庭内の乾き切った独自の倫理については、私が改めて問題提議してみたりもした。


この先、いつまた母の病状が悪くなるのかは分からない。今は元気な母も、父も、もちろん私も、いつどこで死ぬのかなんて誰にも分からない。
ただ、その可能性と不安を誰にも吐露できない関係性であってはならないと思っている。

実際に病に倒れた人間からすれば、どんな身内でも他人で、その痛みや苦労を代わってあげることはできないが、ほんの少しの間でも、その苦しさを忘れさせてあげることはできるのではないかと、今回の件で学びを得た。



先月、久々に母と「あの時」の話を回想した。
母は、こっちの気も知らないで
「やっぱり今思い返しても滅茶苦茶で面白かったよね、あんたエッセイにして良いよ」
と笑っていた。

そしてお望み通り書き起こしてあげたものが、この7400文字にもわたる駄文である。


今を生き抜く、母に手向けて。

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