「飯沼一家に謝罪します」なぜ北海道と徳島なのか?フェイクドキュメンタリーの恐怖の根源
「移動」の意図すること
TXQ FICTIONの新作フェイクドキュメンタリー番組、「飯沼一家に謝罪します」が12月23日から26日にかけて放送され大きな話題を呼んだ。この番組はストーリー性のある映像作品として非常に出来が良く、演出や脚本も凝っているので観ていてかなり満足感のある一作だ。
そんな「飯沼一家に謝罪します」を観て印象に残ったのが、番組のなかで時間と場所の移動が大胆に行われていることだ。この番組は2004年に放送された謎のテレビ番組「飯沼一家」の真相を追うという設定の内容だが、「飯沼一家」内で紹介される番組「幸せ家族王」の放送は1999年だ。そして「飯沼一家に謝罪します」は現在撮影されたテレビ番組(という設定)なので、1999年から2024年にかけて実に25年の時を経た謎が番組の主要な要素となっている。この25年という長大な時間が作品内で扱われることがフェイクドキュメンタリーというジャンルの特殊性を説明する上で重要になることは後述する。
また、この番組では場所の移動も大きい。現代の取材パートは初めは都内(当時の番組関係者への取材がどこで行われたかは明確な記載が無いが、第三回で岸本悠美子が語った内容から都内である可能性が高い)で行われるが、その次は飯沼正明のいる北海道そして岸本悠美子のいる徳島へと場所が大きく移っている。
東京から北海道・徳島と、日本を横断するように舞台が変化していくのだ。関係者が北海道や徳島に住んでいたためこのような移動が発生しているが、内容的にそんなに遠くである必要性はなく都内や関東圏でも十分に話は成り立つ。ではなぜ、このような大きな場所の移動が番組内で描かれたのだろうか?
東京-北海道-徳島が持つ意味
物語のスケール感
第一に制作側の意図として考えられるのが、単に話のスケール感を出したかったということだ。TXQFICTIONの前作「イシナガキクエを探しています」では始終どこかの田舎が舞台で、全体的に味気ない雰囲気だったことが否めない。一方で今回の「飯沼一家に謝罪します」では全国規模の取材映像が流れることでスケールの大きさを演出し、ストーリーや絵面のリッチ感が高くなっている印象を受ける。
最近のハリウッドのブロックバスター映画でみられる傾向だが、とにかく話の舞台をNYからパリ、ローマなどというふうに次々に有名な世界の都市を移動することでストーリーをゴージャスに見せようとするのが流行っている。これと同じことを全国規模でやったのが「飯沼一家に謝罪します」のストーリーだった。
別世界の演出
もう一つの意図として、視聴者に非日常感を感じさせるためというのがある。北海道も徳島も、本州からは海で隔絶された土地である。番組内では北海道へ行くにあたり取材班が飛行機で移動している場面があり、徳島へは車でしまなみ海道を渡っている様子が映される。
この番組の目的は謎のテレビ番組の真相を追うことなので、わざわざ取材のために移動するシーンを番組内に挟む必要性は特にない。ではなぜ、わざわざ移動シーンを入れたのだろうか。飛行機に乗るというのは多くの人にとって非日常であり、未知の場所へと渡っていくことの高揚感を覚えさせる意図があった場面だと考えられる。また、徳間へ瀬戸内海を渡っていく場面でも同様に、海峡を渡ることで別の世界へと踏み込んでいくイメージを持たせている。
ランドスケープによる臨場感
最後に最も重要な目的として、臨場感とリアリティを演出するためである。移動の場面で映る高速道路や新幹線の景色は多くの人にとって馴染み深い光景であり、それを見せることで視聴者自身がその場にいるような臨場感を出したかったのだろう。また、移動の場面では富士山や大鳴海峡といった地方の有名なランドスケープを映している。こういった誰もが知る景色をさり気なく見せることで、番組内で映されるものがフェイクではなく確かにこの世に存在するものだと感じさせる効果があると考えられる。
地方にも名前がある
全国区のテレビ番組は東京で東京の人によって作られる。東京の人にとって、日本とは東京とそれ以外の田舎である。そういった態度がよく表れていたのが「イシナガキクエを探しています」で、その舞台がどこなのかは一切描かれずただ単にどこかの田舎としてしか映されていなかった。それによって、番組がどこで撮影されたのかというリアリティが無くフェイクドキュメンタリーとしての質感を損なっていた。「飯沼一家に謝罪します」では主材がどこで行われたのかを明示することで撮影場所の実在感を強調し、映像のリアリティが高まっている。
フェイクドキュメンタリーの本質的恐怖
なぜ映像は怖いのか
続いては、なぜ番組内で25年という長大な時間の経過が描かれたのかを考えていく。「飯沼一家に謝罪します」は映像メディアの作品だ。そして、「映像メディアそれ自体」の持つ恐ろしさを伝えるために25年という年月が設定されたと考えられる。なぜ映像メディアが恐ろしいのか?それは不確かな存在を確実な存在へと変えてしまう映像の力があまりに強大だからだ。
例えば夜中に道を歩いていて、幽霊のようなものを見たとする。怖くなって急いでその場を去ったあと、幽霊についてこう考えることができる。「あれはただの見間違いだった」と。人間の認知能力や記憶力は不確かなものなので、「幽霊」という恐ろしい存在をなかったことにして見間違いとして処理してしまえば恐怖の対象を容易に消してしまえる。しかし映像は違う。幽霊を見たときに、たまたまスマホで動画を撮っていたどうだろう。後で動画を見返して幽霊が映っていることを確かめてしまえば、自分が幽霊を目撃したという事実は疑いようのないものになる。それからは一生、幽霊に怯えながら生きていくことになるだろう。
つまり、映像のもつ恐ろしさとは不確かでごまかしの効く恐怖の対象を、確実な存在へと変えてしまうことだ。映像というごまかしの効かないメディアに記録された恐怖の対象は消えること無く見る者を追い詰めていく。
過ちこそが恐怖
ではこの「映像メディアそれ自体」の恐ろしさは「飯沼一家に謝罪します」でどう伝えられているのだろうか。番組のタイトルにもある通り、この作品では「謝罪」がテーマとなっている。
謝罪とは、過ちを犯した者が懺悔の意を表明するためにする行為だ。番組内では、過ちを収めた映像がいくつも映される。矢代誠太郎の儀式の失敗、飯沼家という崩壊した家族、融合した四十九日の裁、飯沼正明の犯した罪…これらの過ちの数々は、映像に残っていなければ忘れ去られていた出来事だ。25年という歳月は本来であれば人の過ちが忘れられるために十分な長さだ。過ちは時間と共に忘れられ消えていくからこそ、人は安心して生きていくことができる。しかし過ちが映像に記録されることで、未来永劫過ちの記録に苦しめられることになる。
フェイクドキュメンタリーは恐怖を暴く
飯沼正明は恐らく過ちを犯したが、本来それは本人以外だれにも知られずに済むはずのことだった。しかし、映像の記録によって過去の過ちを暴かれ四半世紀も前の行為に謝罪することを強いられた。
本来飯沼正明の過ちは不確かなものであり、忘却の彼方に消えるはずのことだった。それが映像によって確かなものとなり、彼は罪悪感に苛まれることになる。これこそが映像メディアそれ自体の恐ろしさで、フェイクドキュメンタリーというスタイルの恐怖の根源だと言える。フェイクドキュメンタリーは、それが現実であると錯覚させる。不確かなはずだった恐怖を確かな現実へと変貌させる、恐るべき映像の記録だ。