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桜子先生 1 試験

「お母さん、どうして医者になったの」
母は大阪の街で生まれました。そして大阪女子医学専門学校(現代は関西医科大学)第一回卒業生でした。
今から30年ほど前、母が80歳過ぎ骨折して、ほとんどベットで寝て暮らしていました。
そのころ私はよく実家の母のもとに帰りました。そしていつもベットで寝ている母の隣に一緒に寝て、母の昔話を聞きました。それがあの頃の私の唯一楽しみでした。
また母の楽しみでもありました。
私の休暇が二日以上続くと必ず母のベットに潜りこみに帰りました。
そして、いろいろ母の若いころの面白い話をを聞きました。
「わては夢は、英語の先生やった。でも女学校卒業の時、大阪に女のお医者の学校ができると聞いて、友達みんな、その大阪女子医専を受験するというねん。自分一人だけ英語の学校へ行っても面白くないから、仕方なしに、みんなと一緒に大阪女子医専の試験をうけた」
「びっくりした。その時、合格した者は、わて一人だけだった。わて困って、お父さんに相談したら、これから日本は戦争して、女はみな未亡人になる。医者になっておいたら、一生食うのは困らん」
と言って入学を進めたそうです。
つまり合格してしまったから、仕方なしにその女子医専に行ったそうです。
これが女医、桜子先生の始まりだったのです。
あの時母は、ベットで天井見ながら、
「英語の先生になっていたら、面白かったやろなあ」
と、しにじみ言いました。
「女子医専も、面白かったでしょう」
私は不思議に思って、母に聞きました。でも母は強く言いました。
「面白い、てなもんじゃなかった」
「勉強は厳しいし、臭いし、汚いし、解剖のあった日は、電車に乗ったら、わてが臭いから、周りの人が離れていくねん。香水を沢山買ってつけた。学校辞めていった友達も多かった」
子供のころ、母はいつも決まった香水のいい香りがしていました。実はこんなことがあったのかと、初めて知りました。
「大学の先生はみんな京都大学から来た先生だったから、勉強は厳しかった。でも落第したら恥ずかしいから、大変だった。今でも試験の夢見る」
80歳過ぎた母が、今でも大学時代の試験の夢見ると語るのには驚きました。
母が女医になった動機や学校生活は、もっと楽しくて素晴らしいものかと思っていたと笑って言ったら、母も笑っていました。
でもそのあと、大学時代の面白い事件を話してくれました。
学校の近くに大きな池のある公園があり、友達とよく散歩に行ったそうです。あるとき池のほとりを歩いていると、近くの歯科医学専門学校の生徒がボートに乗っていました。ぼんやり見ていると
「乗せたろか」
と声かけてきました。母と友達は大喜びでした。乗せてもらったそうです。
それをどこかで母の学校、女医専の先生が見ていたのです。
学校に戻るとすぐ呼び出しがかかり、しっかり怒られて、二週間の停学になってしまったのです。
一緒に停学になった友達は、休暇になったと言って実家に帰ると言って大喜びで帰っていきました。
でも母は自宅通学ですから休暇というわけにもいかず、また「歯科大生にボートに乗せてもらって二週間の停学になった」とも言えず、困り果てました。
そこで講義には出ないから、学校には来させてほしいと頼みました。すると許されて通学はできたのですが、何もせず朝から一日学校にいるのは退屈で、仕方ないから廊下の窓から教室の講義を聞いていました。
その時廊下を通る友達はみんな笑うし、平川先生やいろいろな先生などは
「桜子がそんなに勉強熱心だったとは知らなかった」
と、冷やかして通るし、散々だったそうです。
「ボートに乗ったばかりに、ひどい目にあった」と楽しそうに語りました。
面白い母のお話は尽きませんでした。楽しい母と私のひと時でした。

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